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東の伊達と西の伊達、その関係は?

現在大河ドラマ「青天を衝け」が放送中であるが

作中に宇和島藩主・伊達宗城が出ていることに気づいた人はどれほどいるだろうか。

幕末の四賢候」と呼ばれる名君の一人で

あとは福井の松平春嶽・薩摩の島津斉彬・土佐の山内容堂である。

彼らは藩政改革に積極的に取り組み、洋式軍制を導入し、中央政界にも進出した。

今「青天を衝け」では、彼らは隠居の身となっていて、その後大きな影響力を

持つことはなかった。

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伊達宗城肖像(wikipediaより)

宇和島藩伊達宗城は、石高10万石でありながら雄藩として維新まで

活躍し続けたが、この宇和島藩助けられたのが仙台の伊達慶邦である。

 

維新で逆転した仙台と宇和島

 

仙台藩祖・伊達政宗公の長男は秀宗であったが、彼は関ヶ原合戦後に

徳川家康から宇和島10万石を与えられ、宇和島藩祖となる。

一方の仙台藩62万石は次男の忠宗が継ぎ、政宗公の治績を受け継ぎ無事次代に譲った。

秀宗は長男であったが、仙台藩を継ぐことができなかった。

庶長子であったからとも、豊臣秀吉に近すぎたことを警戒されたためとも言われる。

ともあれ宇和島藩は大名の格で言えば仙台藩より下であったが

秀宗は長男であることをいいことに、忠宗より上座に座るなどしてあくまで

兄は自分であることを誇示した。忠宗もあえて争うことはせず、むしろ秀宗を

立てていたため、兄弟間の仲は悪くはなかったという。

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守成の名君と称えられた伊達忠宗wikipedia

ただし、仙台藩ではあくまで宇和島藩支藩扱いとしていたため

宇和島藩は反発、表は仲良く振舞っていても水面下では反目し合っていたという。

幕末になると、両藩は明暗を分けた。

仙台藩は情報収集を軽んじていたことから都の政局には疎く

洋式軍隊の整備も遅れていた。

奥羽越列藩同盟で盟主となった同藩だが、同盟軍は各地で薩長軍に押されており

最終的には仙台藩領に侵入されるまでになった。

そこで頼りにしたのが宇和島藩で、雄藩の宇和島藩の仲立ちもあって

仙台藩の降伏は認められ、城下が戦場になることはなかった。

だが、同盟軍の盟主であった仙台藩への処分は軽くはなく、28万石での再興を許された。

その後の華族令では仙台伊達家は伯爵に叙せられた一方

宇和島伊達家は維新の功により侯爵となり、皮肉にも藩が廃される時に

仙台と宇和島爵位は逆転したのである。

通常、藩の偉人といえば藩祖であるが、宇和島藩では秀宗の存在感が薄い。

宗城の評価が高いということもあるが、秀宗初期の治世ではとにかく混乱が多く

財政も悪化していたことがマイナスに評価されている。

現代、仙台開府400年を機に、宇和島市との友好関係も構築されている。

今や仙台市宇和島市は兄弟都市といっても良いほどである。

なかなか宇和島まで行くのは大変だが、武漢肺炎が落ち着いたら

僕も宇和島に行き、西の伊達文化に触れてみたいものである。