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天安門事件を認めない中共、なぜ大量殺人は起きたのか

本日は、1989年に支那天安門事件が発生した日である。

天安門広場に集まっていた学生のデモに向けて人民解放軍が発砲

数千人が殺害された。

www3.nhk.or.jp

支那においては、天安門事件共産党指導部批判につながるとして

タブー視されており、支那人に聞いてもわからない人が多い。

 

実は二回目の天安門事件

 

なぜ天安門事件が発生したのか。

実は天安門事件は、1989年のものが2回目である。

1回目は、1976年に人望の厚かった周恩来国務院総理が死去し

その追悼行動が大衆による指導部批判に繋がった。

文化大革命を主導した「四人組」が失脚に向かう要因の一つと見られている。

2回目もまた、同様の動きであった。

きっかけは胡耀邦元総書記の死去である。胡耀邦は、指導部の中でも

穏健派として知られ、趙紫陽首相とともに改革開放路線に舵を切っていた。

それに伴い、上海や北京、武漢などで民主化要求デモが多発したが

平和的なデモと見ていた胡耀邦趙紫陽と違い

指導部長老だった鄧小平はこの動きを危険なものと見て1986年12月に談話を発表した。

専制手段は必要な時に使わねばならない。

使う時は慎重にすべきだが

もし誰かが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても

事を起こした刑事犯は法により処理する。

その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。

何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える。 

 これは胡耀邦への激しい批判として受け取られ

この翌月、胡耀邦は失脚し総書記を解任される。

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武力行使を命じた鄧小平(1978年、共同通信

後を継いだ趙紫陽胡耀邦と同じ路線を取り民主化要求デモにも

寛容な立場を貫いた。

 

最初は胡耀邦追悼集会だったが…

 

そのような中1989年4月15日、胡耀邦は政治局会議中に心臓発作で倒れ、急死してしまう。

大衆の理解者として人望が厚く、また指導者としても

有能だったから、党指導部は動揺し、人々は悲しみに暮れた。

4月17日、中国政法大学の教職員の間で、天安門広場に献花をしようという

考えが生まれ、最初は数百人程度だった追悼会場は、その日のうちに5000人

翌日には2万人に膨れ上がり、約2000人の学生が李鵬首相との面会を求めて

警察側と衝突した。これが天安門事件の発端だった。

最初は、胡耀邦追悼がメインで、指導部批判はなかったとされており

趙紫陽もさほど重要視はしていなかった。彼は23日に北朝鮮へと向かった。

だが、鄧小平はデモを唆した裏の人物がいると断じた。

25日、鄧小平は「断固動乱を制圧せよ」と命じたのである。

人民日報にも「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として戦わなければならない」

とした社説が出ると、学生運動は却って活発化し天安門広場は学生が占拠

するところとなった。

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学生と対話する趙紫陽大紀元時報

戻った趙紫陽は、学生側を批判することなく説得を試み

党指導部も柔軟路線か強硬路線かで真っ二つになった。

一度は党指導部も柔軟策を取り、学生側も対話路線に傾いていた。

だが学生側の運動も一枚岩ではなかった。

急進派がハンガーストライキに出ることを宣言したのである。

デモ参加者はすでに50万人。既に穏便な解決方法はなかった。

学生側は

・人民日報の社説の撤回

・党指導部との対等な話し合い

を求めていたが、5月17日鄧小平らはそれに応じず

逆に戒厳令の発令を決めるのである。

 

流血の天安門広場

 

6月2日、ついに人民解放軍戒厳令にも応じずに学生が座り込みを続ける

天安門広場の制圧作戦「清場作戦」を実行する。

その中で人民解放軍はデモ隊に発砲して戦車まで使用するという強硬手段に出る。

その結果、大勢の丸腰のデモ隊が射殺されることになったのである。

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火炎瓶で炎上する人民解放軍の装甲車(共同通信

楊尚昆軍事委員会副主席は、武器の使用を控えるよう

指示していたが、実際に銃撃は行われてしまった。

鄧小平軍事委員会主席が「やむを得ない場合はあらゆる手段を講じて良い」

と指示したのが悪かったのか

デモ隊側が火炎瓶やレンガなどで激しく抵抗し

治安部隊側にも被害が出始めたことが考えられている。

4日午前5時には治安部隊が天安門広場を制圧したが、なお周辺には3000人の

デモ隊がいた。ところが「もう流血はたくさんだ」という提案が出て

デモ隊は撤収を決定。天安門事件終結した。

 

大量殺害を否定する共産党指導部

 

共産党指導部はデモ隊の殺害を否定し続けている。

天安門事件を認めることは、鄧小平の失策を認めることになるからだ。

それは指導部の失敗を認めることにもつながり

再び反政府運動が起きることを警戒しているのである。

2004年温家宝首相は

政治的波風から15年が経ち

中国の改革・開放と社会主義現代化は

巨大な成果を収めた。 

 と武力鎮圧を正当化した。だが、この事件がタブー視されている

ことはいかに共産党指導部に大きなトラウマを残したかがわかろうというもの。

なお、鄧小平は事件後、やめていたタバコを吸い始めた。

夫人が諫めると

「わしにはタバコを吸う自由もないのか」とこぼし

娘が「学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ!

   あなたも座り込みに行きなさいよ!」と言い返した。

間もなく、鄧小平は政界からの引退を宣言し、1997年に死去した。

共産党初期からの古参幹部で、文革では3度失脚したことで

起き上がり小法師」と言われた鄧小平。改革開放路線で

支那の経済再建に成功したが、天安門事件で彼は晩節を汚した。

現在、支那では香港やウイグルでも弾圧事件を起こし

世界的な批判を浴びている。今こそ共産党指導部は

天安門事件の失敗に学び、弾圧を辞めるべきである。

そうでなければ三次、四次の天安門事件が起きることだろう。