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家にいながらタイムスリップ!古地図の魅力とは

先日、寛文4(1664)年の仙台城下絵図を買った。

僕は地図マニアなので、世界中の地図を眺めるのが好きだが

ある時、江戸城下絵図を見ていたところ

「そういや、仙台城下の絵図持ってなくね?」ってことに気づいたのだ。

 

仙台藩ならではの「地方知行制」とは

 

各藩では、地図を作成することが義務ですらあった。

これを幕府に提出して、城の場所や形状、城下のまちなみを解説することが求められていたためだ。

仙台城下には、仙台藩62万石を構成する家臣団の屋敷が密集していたが

特に仙台城に近い大町、譜代町、春日町あたりは上級藩士の屋敷があった。

通常、近世に入ってから大体の藩では藩から藩士に対して支払う棒給は

藩の蔵から支給されており、これを「蔵米知行」といった。

磯田道史氏が計算しているように、当然全ての米を持ち帰るわけではなく

支給される段階で多くを換金し、家で使用する分だけを持ち帰っていたそうである。

そんななか、仙台藩では「地方知行制(じかたちぎょうせい)」といって

知行の分の地域の統治を一任する方式をとった。

例えば、片倉家は白石1万7000石を領したが

政治はもちろん、司法、行政全てを片倉家が決めていたのである。

そのため、各地の領主はそれぞれの治水開発に努めた。

62万石だった仙台藩は、明治維新までには実高100万石を越えていたと見られている。

一方、知行地から定期的に仙台に参勤する必要があり、言ってみれば江戸幕府のミニバージョンが

あったと考えれば良い。

 

どう見ても「城」なのに許された「要害」の存在

 

一国一城令」が布告された中で白石の場合

城が特例として認められていたというのは知られているが

厳密には、多くの「城」が仙台藩にはあった。

しかし、仙台藩はこれを幕府には「要害」として届け出た。

下写真の涌谷城跡は、「涌谷要害」として届け出ている。

(もちろん天守は模擬天守であり、史実ではない)

大規模な防御施設は城というべきところ「要害」と言い張っているのだから

さすがとしか言いようがない。

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涌谷要害として届けられた涌谷城跡(涌谷町HPより)。

これら特例措置を認められていたことから、仙台藩はやはり特別な存在であった。

だが「地方知行制」は、権力の分散を許すというデメリットも生み出した。

その弊害が最高潮になったのが「寛文事件」である。

小説「樅の木は残った」などで知られるこのお家騒動は

登米(2万石)の伊達式部涌谷(2万石)の伊達安芸とで対立が広がり

伊達家家中を二分する騒動に発展したものである。

家臣団が権力を持ちすぎるがゆえに発生した事件といえよう。

戊辰戦争後、仙台藩は62万石から28万石に減らされ、大身の家臣は

帰農するか北海道への開拓を余儀なくされた。

そのため、仙台市が人口、商業、行政の中心地となり一極集中が進んだ。

このように、地図は時代ごとに都市計画を見ることができるだけではなく

その時代背景も見ることができる。時代の変遷をたどっていくと

なおさらおもしろい発見があるのも、地図の醍醐味である。

やはり地元の歴史を考える上で地図はおもしろい。

アプリで配信しているものもあるため、手軽さも増した。

新型コロナで自宅にいることが多いこのご時世

地図を片手に古い仙台に思いを馳せてみてはどうだろうか。