河井継之助最期の戦いを描く!「峠 最後のサムライ」の公開が…。
7月1日に公開を延期していた映画「峠 最後のサムライ」が
再度公開を延期することになり、5月24日公式サイトで告知された。
公開予定は来年にずれこむ見通しで、具体的な日程は明かされていない。
この映画は、司馬遼太郎原作の同名小説が原作で
活躍を描いたものだ。
越後長岡藩といえば、わずか8万石でありながらその存在感は北信越随一である。
その要因は当然、戊辰戦争での奮戦が大きい。
長岡藩は、現在の新潟県長岡市であり、新潟県のほぼ中央に位置する。
藩主の牧野氏は、譜代大名であったため老中をはじめとする幕閣に加わることが多く
その分、御用金が多くかかった。しかも自然災害も多く発生し、藩の財政は火の車であった。
同盟軍が優勢だった北越戦争
非戦中立を宣言し、薩長により朝敵とされた
やむを得ず、長岡藩をはじめとする越後諸藩は奥羽越列藩同盟に加盟し
薩長軍を迎え撃つことになる。
北越戦争と称されるこの戦いは、数で劣る同盟軍が地の利をもって
優勢に推移したと評価されている。
なお、長岡藩の正規兵はおよそ1000人で、その他に農兵や遊撃部隊があった。
長岡藩がおさえていた新潟港は、極めて良好な貿易港で、スネル兄弟らから
近代的な武器、つまり後装式のミニエー銃やガトリング銃などを
大量に仕入れ、練度も極めて高かった。
とはいえ、来襲する薩長軍はおよそ1万。かなりの兵力差があった。
河井は薩長軍に対して奇襲をもって奮闘し、さらに米沢藩から450人
庄内藩からは250人、その他桑名藩、会津藩の援軍を受けて、一度は奪われた長岡城を
奪還したものの、河井が致命傷を負い、さらに新発田藩が寝返ったため
同盟諸藩の軍は浮足立った。
途中の八十里峠を越えて会津領に入った時、ついに力尽きた。福島県只見町である。
この戦いにおいて河井継之助は、長岡藩のみではなく同盟軍全体の象徴のようなもので
彼を中心に北越戦争は回っていたと言って良い。
実際、薩長軍はこの戦いで高級参謀を多数失い、その中には西郷隆盛の弟である
西郷吉二郎も含まれている。この方面の指揮を執った山県有朋は参謀を辞任するほどだった。
戦後、長岡藩は2万石ほどで再興が許されたが、あまりに窮乏していたため
他の藩から米百俵が送られた。
長岡藩ではこれをすぐに消費することはせず、むしろ教育費に充てた。
米を百俵消費すればその場は収まるかもしれないが、将来のことに投資すれば
より多くの成果として返ってくるという「米百俵の精神」である。
長岡藩の気風が表れているようではないか。
長岡の気風は偉人を輩出
この精神の賜物か、長岡市からは各業界で活躍する人を多数輩出し
この北越戦争からは、ただの戦争ではない人の生き方というものを示されているようで
司馬遼太郎もそれに心を動かされたのかもしれない。
残念ながら映画の公開はまだ先ということで
原作小説でも読みながら待ちたいところだ。