YouTubeからVRへ。動画はどう変わるのか
このコロナ禍で、おうち時間が増加したことにより
ネットで動画を見る機会が増えたという方が多いのではないだろうか。
今や自分で好きな物を視聴する側から、実際に動画を作る側に
回る人も多くなってきた。
僕自身、活動に関するもののほかにホラーが好きなので
心霊映像関係のチャンネルを見ていたりする。
実は厳しいYouTuber業界
YouTuberになりたいなと思わないこともないのだが
それを本業にするのはちょっと…というところがある。
今人気のYouTuberは、最初から人気があったわけではなく
ある「刺さる」強さを持っているから見てもらえるし
自分の思ったものや好きなタイミングでやれているうちは良いが
だんだんとハードルは上がっていくわけだから、非常に苦労しているようなのだ。
特にこのコロナ禍で、芸能人やアスリートなど「プロ」が
YouTube業界に参入してきた。だからYouTuberはさらなる差別化を図らなければ
いけないのである。
僕が話を聞いたことがある人は、YouTuber専門の事務所に所属するほど
人気なのだが、「だんだんYouTubeも廃れていくと思います。だから
次に何が来るのかを早くとらえないと、あっという間に取り残されるでしょう」と
話してくれた。オメーが使わせてもらっているツールをよくそんな言えたなと
思ったりしたが、基本的にYouTuberの人々はオープンな性格な人が多くて
自分が思っていることをドシドシ言ってしまうのである。
そんな僕が「おっ」と思ったのが
芸能事務所「アミューズ」の声優部門の公式チャンネル
「AMUSE VOICE ACTORS CHANNEL」である。
ウマ娘繋がりでYouTubeを見ていてオススメの動画に挙がっていたのを
たまたま見つけただけなんだが
「どうせ自己紹介動画とかじゃねえの」と甘く見ていた僕は
動画のラインナップを見てびっくらこいた。
「〇〇っていうゲームをやってみた」「焼きそば大食いしてみた」とか
おおよそ芸能事務所がやる内容じゃないからだ。
再生数はどれも数万ほどで、かなり多いというわけではないんだが
多分知られていないだけで、ファンがもっと知ったら視聴者も増えると思う。
YouTube自体「こんな分野の動画もあるのか」と驚くようなものもあるから
人類のアイデアというのは誠に恐れ入るばかりである。
ただ、YouTube自体のビジネスモデルは、他の追随を許していないから
それほど簡単につぶれることはないだろう。
VR動画がやってくる!?
ただ、VRやARは普及していく可能性がある。
米スーパーデータによると、2021年に80億ドルとなるであろう世界のVR・AR市場は
23年には120億ドルを突破すると推測されているからだ。
その背景にはDX(デジタルトランスインフォメーション)や5G(第5世代移動通信)
の発達がある。今のVRは2Kほどの画質なのだが
これが高画質になって4Kや8Kレベルになると、没入感が今の比ではなくなる。
つまり遠隔地にいながら、現場にいるかのような通信が可能になるのだ。
コロナ禍でリモートワークやオンライン会議が広がる中
よりリアリティーがあって効率的な通信方法が採用されるのは自然な流れである。
動画を製作する側がVRに対応することが求められてくるかもしれない。
もちろん、何でもVR動画にしたところで意味のない分野もあるわけで
VR動画にする意味というのを考える必要があるだろう。
バーチャル空間での街宣運動というのも非常に面白そうだ。
明らかに公選法は追い付けないんじゃないだろうか。
一人の公家の死が生んだものとは
長徳4(998)年冬、一人の公家が陸奥の地で非業の死を遂げた。
その定時は早世したため、左大将済時の養子となった。
御堂関白・藤原道長の又従兄に当たる名家である。
歌の才能に秀で、順調に出世を遂げた。
さらに、朝廷の女性方と浮名を流し、光源氏のモデルとも言われる。
あの清少納言にも思いを寄せていたという。
正四位下左近衛中将となって、間もなく公卿になろうかという長徳元(995)年
権大納言・藤原行成(三蹟の一人)と御前で口論となり、つい手が出た実方中将は
一条天皇の「歌枕を見てまいれ」との命令により陸奥守に左遷された。
行成との口論は直接的には、実方中将が厳しく歌を批判されたためとも
清少納言を巡って恋のバトルだったとも言われる。
みちのくで見つけた歌枕と死
一条天皇の命令である歌枕「阿古耶(あこや)の松」を探し回った。
出羽国千歳山(山形市)でようやく悲願の「阿古耶の松」を見つけることができた。
しかし、彼は悲運の人であった。
ある時、笠島道祖神社の前を従者の制止を聞かずに乗馬したまま素通りした際
突如暴れた馬に振り落とされ、その馬の下敷きになって死亡した。彼は
「みちのくの 阿古耶の松を たずね得て 身は朽ち人と なるぞ悲しき」
(遠く陸奥国まで来て阿古耶の松をついに見つけたが、自分は怪我がもとで
この地で身が朽ちてしまうとは悲しいことだ)
と詠んだ。歌人らしい最期の歌であった。
生年はわからないが死亡した際の年齢は40歳前後と推察されている。
没後、知る人ぞ知る「聖地」に
実方中将の遺体は死亡した名取市愛島塩手につくられた墓に葬られたが
それから100年以上経ってから、歌人で僧侶の西行がこの地を通った。
その時立派な塚を見つけ、かの高名な実方中将の墓と知った西行は
「朽ちもせぬ その名ばかりをとどめおきて
枯野のすすき 形見にぞ見る」と詠んだ。
さらに、江戸時代に俳人・松尾芭蕉も実方中将の墓を探したものの見つからなかったようで
「笠島は いづこさ月の ぬかり道」と無念さを俳句に表している。
芭蕉の門人の天野桃隣は、元禄9(1696)年にこの地にたどりついた。
しかし、さすがに年月が経ちすぎて実方中将の墓は荒れ放題となっていて
一目ではわからないほどだった。
「五輪(塔)折崩れて名のみばかり」
と伝えている。それから五輪塔さえ失われ、今はわずかに墳丘を残すばかりであるが
俳人・正岡子規もこの地を訪れるなど、実方中将の名を知る高名な歌人・俳人が
次々とこの地を訪れた。今で言う聖地巡礼である。
現代となって、実方中将の墓は名取市によって整備され
橋や歌碑も新たに設置されるなど、観光スポットとしても活用されている。
公共交通機関もあるにはあるが、ほとんど通らないので
自動車で行く人がほとんど。きちんと駐車場も整備されている。
実方中将の墓自体はちょっとした丘にあるから、駐車場から徒歩5分ほど上るが
森の中だから気持ち良い。
歌碑はもちろん、「形見のススキ」や「鞍掛け石」などゆかりのスポットもあるので
和歌や俳句に興味のある人は一度行ってみてはいかがだろうか。
「国に殉じた方々の供養をしたい」が繋いだ魂のリレー
6月11日、夕刊フジが報じていたのだが
死刑判決を受けて刑場の露と消えた東条英機元首相ら
7人の遺骨について米軍将校が
「私が海に撒いた」と記した公文書が見つかった。
これに対して、熱海にある礼拝山興亜観音にも遺骨が納められていると
いう記事である。
恐らく記者としては「海に撒いたはずの遺骨がなぜこんなところに?」
という疑問から記事にしたのだろうが、不思議でも何でもない。
この話は大昔から知られていた話で、この記録も残っている。
武藤章中将、松井石根大将、板垣征四郎大将、広田弘毅元首相、木村兵太郎大将
の4人に、1948(昭和23)年12月23日絞首刑が執行された。
東条元首相の勝子夫人が「軍人の家族の一員として死刑には異議はないが
せめて遺骨は日本の慣習と宗教によって葬らせていただきたい」と
嘆願書を出していたが、GHQはそれすらも却下していた。
ニュルンベルク裁判でも見られたように、遺体を引き渡した後に
英雄視されるのを恐れたためである。
弁護士らによる「遺骨奪還作戦」
一方、東京裁判で小磯国昭元首相の弁護を担当した三文字正平弁護士は
7人の遺体が久保山火葬場(横浜市)で荼毘にふされると察知していた。
火葬場近くの興善寺*1の市川伊雄住職を通じて
飛田美善火葬場長を説得、7つの骨壺に納めることができたのだが
骨壺を隠した場所に線香をそなえていたことで発見され、没収された。
米兵は7人の遺骨を粉砕して持ち去ったが、その残りを
共同骨捨場に投棄していたのを飛田場長が目撃しており
三文字弁護士、市川住職、飛田場長はそこの上にたまっていた真新しい骨灰を
拾い上げ、橋本欣五郎大佐の担当であった林逸郎弁護士と協力して
ではなぜ、熱海市の興亜観音が出てくるのかといえば、実はこの興亜観音は
松井大将が建立した寺院であり、奪還した7人の骨灰を快く引き受け
供養したのが、この興亜観音なのである。
興亜観音でも、GHQに知られては大変だということで遺族以外には知られないよう
細心の注意を払ってはいたが、それでも噂は立つもので当時の興亜観音も
大変苦労していたという。同観音住職の伊丹忍礼師(当時)によると
それからは誠に大変だった。私ども夫妻は子供達にも知られぬように
深夜、本修院の玄関口の題目塔のうしろに密かに穴を掘り
埋め隠した。そしてわざわざ雑草をしげらし、誰が見ても
絶対に察知されない自然の形にした。
と述懐しているほどである。
そんな中、1951(昭和26)年に対日講和条約が発効すると、三文字弁護士は
林弁護士に相談し「興亜観音が細々と供養を続けているが
どこか適当な場所に正式に埋葬したい」と遺族から要望があったと伝えた。
そこで林弁護士が地元の三浦謙吉愛知県議に相談の内容を話したところ
三浦県議が「それなら三ヶ根山でドライブウェイを建設中だから、その山頂ではどうか」
となったのである。幸いにも地元で受け入れ体制がスムーズにつくられ
1960(昭和35)年に興亜観音から分骨、「殉国七士廟」建立の運びとなった。
つまり、最初に米兵が粉々に粉砕して持ち去ったのが1番目
次に、三文字弁護士らが奪還して興亜観音に納めたのが2番目
興亜観音から分骨して、林弁護士の地元で建立された「殉国七士廟」が3番目
ということで、記事を検証しても矛盾する点はない。
「国家のために命を捧げた方々を供養したい」という一心で
このリレーを成し遂げることができたのである。
これは映画化してもおかしくはないドラマである。改めて感動した。
もちろん、他にも何千という将兵が死刑となっており
その中には明らかに証拠不十分だったり、人種差別的な判決もある。
従って法務死でも、戦没者と同様に丁重に葬らなければ子孫の名が廃る。
愛知県へは全国各地からアクセスが向上していることもあり
ぜひ、僕も「殉国七士廟」やさらに東の「興亜観音」など国内の各地にある
追悼施設をお参りしていきたいものだ。
日本第一党・桜井誠党首が出馬を表明
出馬する。9日の同党首の放送で明言した。
しかし、秋元氏がIR買収事件および贈賄側証人を偽証させるべく
現金を提供しようとしたため、2020年9月に起訴されている。
もともとわが党では、東京15区から出馬を検討していたものの
秋元氏が逮捕・起訴されたことを受けて取りやめていた経緯がある。
21年6月7日に秋元氏が保釈され、次期衆院選に出馬するもようであることから
桜井党首も再び出馬の決意を固めたものである。
東京15区は、結構な激戦区の一つで、秋元氏をそのまま自民・公明が擁立すれば
柿沢氏に敗北する可能性が高い。
わが党の問題は、柿沢氏に勝てるかどうかという点で、保守層が秋元氏から柿沢氏に
スライドすることが十分に予想されるのである。
ただし、柿沢氏は現在無所属であり、党派の後押しは期待できないから
前回ほどの得票は期待できない。
つまり、日本第一党が善戦できる余地は十分にあるということだ。
もちろん、共産党も当然出してくるであろうし
秋元氏が絶望的だとしても、激戦区には変わりない選挙区だ。
ともあれ、日本第一党にとっては初の国政選挙への挑戦となる。
国政でどれだけの得票を得ることができるか試金石にも成り得る。
テレ東のおもしろプロフィール
ところで、選挙といえば僕は密かにお気に入りなのが
テレビ東京の選挙特番で、立候補者のプロフィールが一言
シュールなものを厳選して紹介しているのだ。
解説していて、テレビ東京が他局と比べて速報性で劣る中
どうすれば良いかと考えたところ、当選した立候補者一人一人に
触れる形にすることで差別化することに成功した。
どうやって調べるんだ!と気になるところだが
各テレビ局には政治部があって、各政治家や党派の番記者がいるから
全部の候補のおもしろい情報を集めろ!とやれば一斉に集まるだろうし
もしかしたら、候補者側が協力している可能性もある。
立候補者側も利用できるものは黒歴史だろうと公表して
目立ちたいのである。
わが党の候補者もいずれおもしろエピソードが紹介されるかもしれないね。
東の伊達と西の伊達、その関係は?
現在大河ドラマ「青天を衝け」が放送中であるが
作中に宇和島藩主・伊達宗城が出ていることに気づいた人はどれほどいるだろうか。
「幕末の四賢候」と呼ばれる名君の一人で
あとは福井の松平春嶽・薩摩の島津斉彬・土佐の山内容堂である。
彼らは藩政改革に積極的に取り組み、洋式軍制を導入し、中央政界にも進出した。
今「青天を衝け」では、彼らは隠居の身となっていて、その後大きな影響力を
持つことはなかった。
宇和島藩の伊達宗城は、石高10万石でありながら雄藩として維新まで
活躍し続けたが、この宇和島藩助けられたのが仙台の伊達慶邦である。
維新で逆転した仙台と宇和島
仙台藩祖・伊達政宗公の長男は秀宗であったが、彼は関ヶ原合戦後に
一方の仙台藩62万石は次男の忠宗が継ぎ、政宗公の治績を受け継ぎ無事次代に譲った。
秀宗は長男であったが、仙台藩を継ぐことができなかった。
庶長子であったからとも、豊臣秀吉に近すぎたことを警戒されたためとも言われる。
秀宗は長男であることをいいことに、忠宗より上座に座るなどしてあくまで
兄は自分であることを誇示した。忠宗もあえて争うことはせず、むしろ秀宗を
立てていたため、兄弟間の仲は悪くはなかったという。
宇和島藩は反発、表は仲良く振舞っていても水面下では反目し合っていたという。
幕末になると、両藩は明暗を分けた。
仙台藩は情報収集を軽んじていたことから都の政局には疎く
洋式軍隊の整備も遅れていた。
奥羽越列藩同盟で盟主となった同藩だが、同盟軍は各地で薩長軍に押されており
最終的には仙台藩領に侵入されるまでになった。
そこで頼りにしたのが宇和島藩で、雄藩の宇和島藩の仲立ちもあって
仙台藩の降伏は認められ、城下が戦場になることはなかった。
だが、同盟軍の盟主であった仙台藩への処分は軽くはなく、28万石での再興を許された。
その後の華族令では仙台伊達家は伯爵に叙せられた一方
宇和島伊達家は維新の功により侯爵となり、皮肉にも藩が廃される時に
通常、藩の偉人といえば藩祖であるが、宇和島藩では秀宗の存在感が薄い。
宗城の評価が高いということもあるが、秀宗初期の治世ではとにかく混乱が多く
財政も悪化していたことがマイナスに評価されている。
現代、仙台開府400年を機に、宇和島市との友好関係も構築されている。
僕も宇和島に行き、西の伊達文化に触れてみたいものである。
天安門事件を認めない中共、なぜ大量殺人は起きたのか
数千人が殺害された。
支那においては、天安門事件は共産党指導部批判につながるとして
タブー視されており、支那人に聞いてもわからない人が多い。
実は二回目の天安門事件
なぜ天安門事件が発生したのか。
実は天安門事件は、1989年のものが2回目である。
1回目は、1976年に人望の厚かった周恩来国務院総理が死去し
その追悼行動が大衆による指導部批判に繋がった。
文化大革命を主導した「四人組」が失脚に向かう要因の一つと見られている。
2回目もまた、同様の動きであった。
きっかけは胡耀邦元総書記の死去である。胡耀邦は、指導部の中でも
穏健派として知られ、趙紫陽首相とともに改革開放路線に舵を切っていた。
それに伴い、上海や北京、武漢などで民主化要求デモが多発したが
指導部長老だった鄧小平はこの動きを危険なものと見て1986年12月に談話を発表した。
専制手段は必要な時に使わねばならない。
使う時は慎重にすべきだが
もし誰かが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても
事を起こした刑事犯は法により処理する。
その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。
何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える。
これは胡耀邦への激しい批判として受け取られ
この翌月、胡耀邦は失脚し総書記を解任される。
寛容な立場を貫いた。
最初は胡耀邦追悼集会だったが…
そのような中1989年4月15日、胡耀邦は政治局会議中に心臓発作で倒れ、急死してしまう。
大衆の理解者として人望が厚く、また指導者としても
有能だったから、党指導部は動揺し、人々は悲しみに暮れた。
4月17日、中国政法大学の教職員の間で、天安門広場に献花をしようという
考えが生まれ、最初は数百人程度だった追悼会場は、その日のうちに5000人
翌日には2万人に膨れ上がり、約2000人の学生が李鵬首相との面会を求めて
警察側と衝突した。これが天安門事件の発端だった。
最初は、胡耀邦追悼がメインで、指導部批判はなかったとされており
趙紫陽もさほど重要視はしていなかった。彼は23日に北朝鮮へと向かった。
だが、鄧小平はデモを唆した裏の人物がいると断じた。
25日、鄧小平は「断固動乱を制圧せよ」と命じたのである。
人民日報にも「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として戦わなければならない」
とした社説が出ると、学生運動は却って活発化し天安門広場は学生が占拠
するところとなった。
戻った趙紫陽は、学生側を批判することなく説得を試み
党指導部も柔軟路線か強硬路線かで真っ二つになった。
一度は党指導部も柔軟策を取り、学生側も対話路線に傾いていた。
だが学生側の運動も一枚岩ではなかった。
急進派がハンガーストライキに出ることを宣言したのである。
デモ参加者はすでに50万人。既に穏便な解決方法はなかった。
学生側は
・人民日報の社説の撤回
・党指導部との対等な話し合い
を求めていたが、5月17日鄧小平らはそれに応じず
逆に戒厳令の発令を決めるのである。
流血の天安門広場
6月2日、ついに人民解放軍は戒厳令にも応じずに学生が座り込みを続ける
天安門広場の制圧作戦「清場作戦」を実行する。
その中で人民解放軍はデモ隊に発砲して戦車まで使用するという強硬手段に出る。
その結果、大勢の丸腰のデモ隊が射殺されることになったのである。
楊尚昆軍事委員会副主席は、武器の使用を控えるよう
指示していたが、実際に銃撃は行われてしまった。
鄧小平軍事委員会主席が「やむを得ない場合はあらゆる手段を講じて良い」
と指示したのが悪かったのか
デモ隊側が火炎瓶やレンガなどで激しく抵抗し
治安部隊側にも被害が出始めたことが考えられている。
4日午前5時には治安部隊が天安門広場を制圧したが、なお周辺には3000人の
デモ隊がいた。ところが「もう流血はたくさんだ」という提案が出て
大量殺害を否定する共産党指導部
共産党指導部はデモ隊の殺害を否定し続けている。
天安門事件を認めることは、鄧小平の失策を認めることになるからだ。
それは指導部の失敗を認めることにもつながり
再び反政府運動が起きることを警戒しているのである。
2004年温家宝首相は
政治的波風から15年が経ち
中国の改革・開放と社会主義現代化は
巨大な成果を収めた。
と武力鎮圧を正当化した。だが、この事件がタブー視されている
ことはいかに共産党指導部に大きなトラウマを残したかがわかろうというもの。
なお、鄧小平は事件後、やめていたタバコを吸い始めた。
夫人が諫めると
「わしにはタバコを吸う自由もないのか」とこぼし
娘が「学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ!
あなたも座り込みに行きなさいよ!」と言い返した。
間もなく、鄧小平は政界からの引退を宣言し、1997年に死去した。
「起き上がり小法師」と言われた鄧小平。改革開放路線で
世界的な批判を浴びている。今こそ共産党指導部は
天安門事件の失敗に学び、弾圧を辞めるべきである。
そうでなければ三次、四次の天安門事件が起きることだろう。
「あいちトリカエナハーレ2021」に賛同する!
2019年に「あいちトリエンナーレ」の一部として行われ
多くの批判を浴びて中止となった「表現の不自由展」。
それがまたしても企画されている。
「私たちの『表現の不自由展・その後』」(7月6日〜11日@名古屋)開催のためのクラウドファンディングを5月28日(金)17時から開始します。
— 「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会 (@SaikaiAichi) 2021年5月27日
表現の自由と歴史の事実の回復、そして何より芸術作品に「見て、触れて、感じる」機会の回復のため、多くの皆さまの参加をぜひ。https://t.co/kTW1K06U6D
この「表現の不自由展」では展示内容が酷いもので
昭和天皇の御真影を燃やす映像や、いわゆる従軍慰安婦の像の展示など
日本人を愚弄しているとしか思えないような内容の展示を行った。
すると、愛知県の公金支出に不適切だと指摘が相次ぎ、そのほかにも政治活動では、という意見や
検閲行為などに批判を呼び、結局途中で中止となった。
日本第一党愛知県本部などでは「あいちトリカエナハーレ」として
カウンターアートを仕掛けたほか
名古屋市の河村たかし市長や高須クリニックの高須克弥院長らによる
愛知県の大村秀章知事に対するリコール運動にまで発展した。
そのように、何も生み出しはしなかった悪夢のような展示会がまた…である。
「あいちトリエンナーレ」では公金支出が批判されたことから、今度は
開催費用をクラウドファンディングで募っている。
日本人のための芸術祭「あいちトリカエナハーレ2021」も始動
これについて、カウンターアートである
「あいちトリカエナハーレ2021」(主催、同実行委員会)も本格始動。
展示予定会場がなぜか空いていないと言われるなど
さっそく愛知県の行政にありがちな嫌らしい洗礼を受けているようだ。
これを黙って見過ごす我が実行委員会ではありません。
— あいちトリカエナハーレ実行委員会【公式】 (@tricaenaare) 2021年5月22日
秋に予定の芸術祭を前倒し開催するべく準備が進んでいます。
乞う、ご期待!!#あいちトリカエナハーレ#日本第一党https://t.co/2rhNlaZDwU
「表現の不自由展」については、「公金じゃないんだからいいじゃん」という
主張を繰り広げている人もいるようだが…。保守派が聞いて呆れる。
逆に保守派がいくら自腹で集会をしようと、街頭活動をしようと
左派系団体はヘイトと決めつけて妨害にやってきているではないか。
公金でないから良いとは全く理由になっていない。本質はもっと別で
展示内容が我々の、そして先人を貶めるものだから反対運動をやっているのである。
まだコソコソやる分にはいいかもしれないが
大々的に告知している以上、私たちも対応を迫られているということである。
そこで、愛知県の仲間たちが再び動いているのが今回の「あいちトリカエナハーレ」
である。当然全くの自腹だ。
ましてやヘイト表現がないことを行政も確認をとっているからなおさらである。
万一あったとしても、表現の不自由展ほどではないと言わざるを得ないだろう。
天子様を冒涜する行為は、私たちの心を踏みにじる行為以外の何物でもなく
それに対するカウンターが激しくなってもやむを得ないことは
左派系がよくやっているからわかると思う。
当然僕も「あいちトリカエナハーレ2021」に賛同する。
ぜひ多くの方に、この素晴らしい「あいちトリカエナハーレ2021」の展示を
楽しんでいただいたいし、そのためには実行委員会の皆様の無事の開催を
心よりお祈りする次第である。
それにしても、「表現の不自由展」はまた憎悪を生み出すのだろうか。
対立を煽って一体何がしたいのか、理解しがたい。