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一人の公家の死が生んだものとは

長徳4(998)年冬、一人の公家が陸奥の地で非業の死を遂げた。

その名は藤原実方。父は藤原北家の藤原定時である。

その定時は早世したため、左大将済時の養子となった。

御堂関白・藤原道長の又従兄に当たる名家である。

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藤原実方中将肖像(名取市観光協会HPより)

歌の才能に秀で、順調に出世を遂げた。

小倉百人一首に取り上げられ、中古三十六歌仙に選ばれている。

さらに、朝廷の女性方と浮名を流し、光源氏のモデルとも言われる。

あの清少納言にも思いを寄せていたという。

正四位下左近衛中将となって、間もなく公卿になろうかという長徳元(995)年

権大納言藤原行成三蹟の一人)と御前で口論となり、つい手が出た実方中将は

一条天皇の「歌枕を見てまいれ」との命令により陸奥守に左遷された。

行成との口論は直接的には、実方中将が厳しく歌を批判されたためとも

清少納言を巡って恋のバトルだったとも言われる。

 

みちのくで見つけた歌枕と死

 

国司として陸奥国に赴任した実方中将は、名所旧跡を巡り

一条天皇の命令である歌枕「阿古耶(あこや)の松」を探し回った。

出羽国千歳山(山形市)でようやく悲願の「阿古耶の松」を見つけることができた。

しかし、彼は悲運の人であった。

ある時、笠島道祖神社の前を従者の制止を聞かずに乗馬したまま素通りした際

突如暴れた馬に振り落とされ、その馬の下敷きになって死亡した。彼は

「みちのくの 阿古耶の松を たずね得て 身は朽ち人と なるぞ悲しき」

(遠く陸奥国まで来て阿古耶の松をついに見つけたが、自分は怪我がもとで

 この地で身が朽ちてしまうとは悲しいことだ)

と詠んだ。歌人らしい最期の歌であった。

生年はわからないが死亡した際の年齢は40歳前後と推察されている。

 

没後、知る人ぞ知る「聖地」に

 

実方中将の遺体は死亡した名取市愛島塩手につくられた墓に葬られたが

それから100年以上経ってから、歌人で僧侶の西行がこの地を通った。

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お墓は墳丘で、周囲には案内板などが残っている

その時立派な塚を見つけ、かの高名な実方中将の墓と知った西行

「朽ちもせぬ その名ばかりをとどめおきて

 枯野のすすき 形見にぞ見る」と詠んだ。

さらに、江戸時代に俳人松尾芭蕉も実方中将の墓を探したものの見つからなかったようで

笠島は いづこさ月の ぬかり道」と無念さを俳句に表している。

芭蕉の門人の天野桃隣は、元禄9(1696)年にこの地にたどりついた。

しかし、さすがに年月が経ちすぎて実方中将の墓は荒れ放題となっていて

一目ではわからないほどだった。

「五輪(塔)折崩れて名のみばかり」

と伝えている。それから五輪塔さえ失われ、今はわずかに墳丘を残すばかりであるが

俳人正岡子規もこの地を訪れるなど、実方中将の名を知る高名な歌人俳人

次々とこの地を訪れた。今で言う聖地巡礼である。

現代となって、実方中将の墓は名取市によって整備され

橋や歌碑も新たに設置されるなど、観光スポットとしても活用されている。

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名取市営バスも停まるようだが、本数は期待できない

公共交通機関もあるにはあるが、ほとんど通らないので

自動車で行く人がほとんど。きちんと駐車場も整備されている。

実方中将の墓自体はちょっとした丘にあるから、駐車場から徒歩5分ほど上るが

森の中だから気持ち良い。

歌碑はもちろん、「形見のススキ」や「鞍掛け石」などゆかりのスポットもあるので

和歌や俳句に興味のある人は一度行ってみてはいかがだろうか。