「国に殉じた方々の供養をしたい」が繋いだ魂のリレー
6月11日、夕刊フジが報じていたのだが
死刑判決を受けて刑場の露と消えた東条英機元首相ら
7人の遺骨について米軍将校が
「私が海に撒いた」と記した公文書が見つかった。
これに対して、熱海にある礼拝山興亜観音にも遺骨が納められていると
いう記事である。
恐らく記者としては「海に撒いたはずの遺骨がなぜこんなところに?」
という疑問から記事にしたのだろうが、不思議でも何でもない。
この話は大昔から知られていた話で、この記録も残っている。
武藤章中将、松井石根大将、板垣征四郎大将、広田弘毅元首相、木村兵太郎大将
の4人に、1948(昭和23)年12月23日絞首刑が執行された。
東条元首相の勝子夫人が「軍人の家族の一員として死刑には異議はないが
せめて遺骨は日本の慣習と宗教によって葬らせていただきたい」と
嘆願書を出していたが、GHQはそれすらも却下していた。
ニュルンベルク裁判でも見られたように、遺体を引き渡した後に
英雄視されるのを恐れたためである。
弁護士らによる「遺骨奪還作戦」
一方、東京裁判で小磯国昭元首相の弁護を担当した三文字正平弁護士は
7人の遺体が久保山火葬場(横浜市)で荼毘にふされると察知していた。
火葬場近くの興善寺*1の市川伊雄住職を通じて
飛田美善火葬場長を説得、7つの骨壺に納めることができたのだが
骨壺を隠した場所に線香をそなえていたことで発見され、没収された。
米兵は7人の遺骨を粉砕して持ち去ったが、その残りを
共同骨捨場に投棄していたのを飛田場長が目撃しており
三文字弁護士、市川住職、飛田場長はそこの上にたまっていた真新しい骨灰を
拾い上げ、橋本欣五郎大佐の担当であった林逸郎弁護士と協力して
ではなぜ、熱海市の興亜観音が出てくるのかといえば、実はこの興亜観音は
松井大将が建立した寺院であり、奪還した7人の骨灰を快く引き受け
供養したのが、この興亜観音なのである。
興亜観音でも、GHQに知られては大変だということで遺族以外には知られないよう
細心の注意を払ってはいたが、それでも噂は立つもので当時の興亜観音も
大変苦労していたという。同観音住職の伊丹忍礼師(当時)によると
それからは誠に大変だった。私ども夫妻は子供達にも知られぬように
深夜、本修院の玄関口の題目塔のうしろに密かに穴を掘り
埋め隠した。そしてわざわざ雑草をしげらし、誰が見ても
絶対に察知されない自然の形にした。
と述懐しているほどである。
そんな中、1951(昭和26)年に対日講和条約が発効すると、三文字弁護士は
林弁護士に相談し「興亜観音が細々と供養を続けているが
どこか適当な場所に正式に埋葬したい」と遺族から要望があったと伝えた。
そこで林弁護士が地元の三浦謙吉愛知県議に相談の内容を話したところ
三浦県議が「それなら三ヶ根山でドライブウェイを建設中だから、その山頂ではどうか」
となったのである。幸いにも地元で受け入れ体制がスムーズにつくられ
1960(昭和35)年に興亜観音から分骨、「殉国七士廟」建立の運びとなった。
つまり、最初に米兵が粉々に粉砕して持ち去ったのが1番目
次に、三文字弁護士らが奪還して興亜観音に納めたのが2番目
興亜観音から分骨して、林弁護士の地元で建立された「殉国七士廟」が3番目
ということで、記事を検証しても矛盾する点はない。
「国家のために命を捧げた方々を供養したい」という一心で
このリレーを成し遂げることができたのである。
これは映画化してもおかしくはないドラマである。改めて感動した。
もちろん、他にも何千という将兵が死刑となっており
その中には明らかに証拠不十分だったり、人種差別的な判決もある。
従って法務死でも、戦没者と同様に丁重に葬らなければ子孫の名が廃る。
愛知県へは全国各地からアクセスが向上していることもあり
ぜひ、僕も「殉国七士廟」やさらに東の「興亜観音」など国内の各地にある
追悼施設をお参りしていきたいものだ。