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今年初の神崇連活動報告

今日は晴れ、暖かい。
13℃くらいあったな。とにかく暖かくて
もはや冬にあらずという感じだった。


さ、今日は今年初の神社崇敬者連合の大規模な活動の日だった。
幹事長のH川さんが車を出してくだすって
何ともありがたい限りであった。
今回は、もう何度も行っているんだが
大崎市といっても、岩出山周辺から南下していく感じだ。
というわけで、さっそくレポートしていこうかな。


まず最初に、大崎八幡神社だ。
この八幡神社は、国道4号から457号線、岩出山に向かう途中にあり
江合川のすぐそばにある。

極めてこじんまりとした社域。
この神社は、承安年間(1171〜1174)藤原秀衡の臣である照井太郎高直が
八幡神社に勧請して創建された。
後に秀衡の夫人が源義経の戦勝を祈願し、その際に奉納したという
神鏡が未だに社宝として保存されているという。

さて、この大崎八幡神社だが、名前だけ見ると仙台市にある大崎八幡宮の前身じゃね
なんて思うのは道理だ。しかし、この神社はその前からあって
大崎氏が入部する以前の藤原氏の時代からあるとのことだった。
しかし、だとすると神社に「大崎」の字がついているのはどういうわけだろうか。
神社建築も神明造で、田尻にある本宗大崎八幡神社と同じである。
じゃあ社伝がウソなのかというと、それも何ともいえない。
江合川自体が元々氾濫の多い川で、その側に神社を持ってくるというのが
あまり聞かないこと。最近になって遷座されてきた可能性も
極めて高いからだ。


次は、鍋倉山八幡神社。ここは岩出山城跡がある城山公園からちょいと
外れた場所にあるが、さほど離れていない。ただ、入口は狭いから苦労するかも。

この神社は、創建された年代は明らかとなっていないが
前九年の役源義家が石清水八幡から勧請し、創建したのが初めてだという。
で、後に大崎氏、伊達氏がこの地方と領した時に大いに崇敬され
大いに栄えたわけだが、特に伊達政宗が米沢から成島八幡を遷座
境内社として社を作ったそうである。
大崎義隆との合戦の際には、一栗領主の氏家刑部に大変苦戦した。
その際に、八幡神政宗の夢に出て、大勝を収めさせてくれたということだ。
この氏家刑部というのは、大崎氏の代々の家老を務める氏家氏の一族である。
実はこの時、大崎氏の分家にあたる最上氏が応援に駆けつけ、伊達軍は
黒川晴氏の裏切りもあって、散々に打ち破られた。
しかし、大崎氏の家老である氏家吉継も伊達側に寝返り、両軍の和睦を取り持った
という功績もあり、この氏家氏と一口にいっても、一枚岩ではなかったことがいえる。
社伝から見ると、ここが大崎氏が崇敬し、伊達政宗が成島八幡を遷座させてきた神社かと思うが
だとすると、田尻の大崎八幡はどうなるんだという疑問もあるわけだが
伊達氏と大崎氏は別と考えたほうが、この問題は意外とシンプルなのかもしれないな。
ちなみに、ここでご朱印をいただけました。


この後、岩出山城跡にも行ったんだが、あまり保存方法が良くなかったので
あえてノーコメントで。


さ、どんどん行こう。
次は、馬主神社という神社で、馬主部落にある。

この神社の創建は不明である。
ただ、社紋が三つ引両紋だったことや
建築様式が極めて新しいものであること、馬頭観音の板碑がたくさんあることから
江戸後期以降の創建であることはまず間違いないと見て良い。
祭神は、保食神(うけもちのかみ)といい食物の神様である。
「日本書記」によると天照大神が、この保食神がいるという話を聞いて
月夜見尊に、食べ物を分けてもらうように命じた。
で、月夜見尊保食神に事情を説明すると、この神様は
口から食べ物を出した。で、月夜見尊が汚い!というて殺してしまった。
ところが、保食神の死体からさまざまな食べ物が出てきた。
しょうがないので、それを持って天照大神に復命したところ大層喜ばれたとのことである。
そのうち、大豆や小豆、稗や粟などを畑に撒き、種子としたために
食物の神、農業の神とされるのである。

ここは無人だが、近くに農業関係の訓練施設があるようで
その関係もあって、農業の神社があるのだと思う。
で、馬頭観音も祀られているというわけである。


次は、廣原神社という神社である。
ここは、加美町菜切谷にある。だから、菜切谷廃寺にも近い。

この神社は、明治42年(1909)に9部落の神社をすべて合祀して
できた神社であって、祭神も菅原道真からイザナギイザナミまで
かなり多い。
鹿島台神社もそんな感じだったが、この神社の場合
なぜ合祀したのかってことまではわからなかった。
しかし、社紋が菊の御紋だったな…。

ちなみに、鳥居の写真に写っているのがH川幹事長。
この社殿も、神明造で、多く合祀していながら
伊勢神宮式年遷宮に合わせて遷座したりと、皇室神道寄りである。
皇室神道とは、天照大神を祖神としてお祭りし、伊勢神宮を特に崇敬するという
神道である。とはいえ、御上はいかなる神様であれ、分け隔てなく
御崇敬遊ばしておられるはずであるから、些細な区別に過ぎない。
ここでもご朱印をいただけました。


次は、飯豊神社である。
山形にも飯豊地方があるが、こちらの飯豊は
「いいとよ」と読む。

この神社は、式内社で景雲2年(709)巨勢麻呂がこの地にやってきて
保食神を祀ったというのが、初めてになる。
後に、大野東人が鎮守将軍として天平9年(737)にこの地に来た際
出羽国との道路を模索していて、この神社の社殿を造ったというわけである。
この記事は「続日本紀」にも記載があって
「先是。陸奧按察使大野朝臣東人等言。從陸奧國達出羽柵道經男勝。行程迂遠。」
陸奥国から出羽柵(秋田城)を通る道を探したのである。

このへんは山の中ということもあって、雪がたくさん残っていたが
手水舎の水が、湧き水でとても冷たく、またとてもうまかった。
雪解け水が流れる音や、森の木々の音が聞こえて
とても心が穏やかになり、悠久の時に思いを馳せた。
一方、近くの河川敷では、ご老人方がゲートボールに興じていた。


次は出羽神社である。これは…飯豊神社から
東へ向かうと、清水小学校という学校があるがその近くである。

この神社は、天慶年間(938〜946)に修験清光院先祖不動坊源快が
勧請するところと伝えられ、明治の初めに現社名となっているが
庄内地方にある出羽神社が本社であることは間違いない。
元々出羽三山修験道の聖地としても知られていて
こちらの出羽神社も多分にその影響を受けている。
例えば、薬師如来を祀っているところなど。

これが社殿だが、いささか酷いと思うところは
昇殿する階段が、なぜか一部タイルになっていた。
で、手水舎の蛇口が、安っぽいライオンの頭になっていた。
あまりの酷さに唖然としてしまったね。


次は鹿島神社。なぜか大崎市鹿島神社がたくさんあるんだよな。
出羽神社から東に向かい、国道を挟んだ場所にある。
それほど遠くないので、まぁわかりやすいのでは。

この神社は、延暦年間に坂上田村麻呂蝦夷平定に来た際
別の場所に勧請されたが、社伝によれば
水害が続いたため、それを避けるために寛永17年(1670)にこの地に遷座されたという。
祭神は武甕槌大神で、軍神として知られていて、社伝の通り
塩竈神社の左宮に祀られている。

実は、この神社の社殿の中に「おものめさま」という女性の像が祀られていた。
はて、この「おものめさま」とは何ぞや?と思った我々は
宮司さまにお尋ねしたところ、こういうことであった。
昔、この村にとても美しい女性がおった。
で、その女性のもとに毎晩通いつめてくる男があったのだが
それがまた色男で、女性もすっかりお気に入りだったそうだ。
ところがある日、その女性にガマガエルが話しかけてきて
「あの男は人間ではなくて、とても恐ろしいものだ。
 もう会わないほうがよい」という。
しかし、女性のほうはあんなイケメンが化け物だなんて信じられるかいと
一蹴したわけだが、ガマガエルがさらに言うには
「では、次にその男に会う時に着物の裾に糸を付けた縫い針を刺しておきなさい」
というので、まぁそれくらいならと、女性は請け負った。
で、次にその男が女性のもとに来た際、言われたとおりに糸の付いた縫い針を
こっそり着物の裾に刺して帰らせたのだが、それ以来その男は女性のもとには
こなくなった。悲しんだ女性は、その男を探し回ったのだが
ある大木から糸が垂れているではないか、その糸は間違いなく女性が針につけた糸で
あった。で、応援に来た村人がその大木を登っていくと
大蛇が丸くなって死んでおったとのことであった。
大蛇は男の姿に化けて、女性を惑わしていたのであったが
ガマガエルの忠告に耳を貸さず、まんまと男に引っかかっていたことを
恥じた女性は、近くの沼に身を投げて死んでしもうた。
村人はそれを不憫に思い、鹿島神の斎姫(巫女みたいなもの)として
祀ったのだそうである。で、なぜ「おものめさま」と言ったかはわからないが
「顔がめんこい」→「面のめんこい」→「おものめさま」となったのでは、とのこと。


この話はあくまで伝承であって、本当かどうかはわからないが
わが国には大蛇伝説が極めて多い。元々、日本人というのが
ユニークな生き物や手に負えない生き物を神様として祀ってきたからだ。
従って、この話の中で大蛇は女を惑わす悪い生き物としていわれているのが
荒御霊というのか、祀ることでこの話の内容も変わってきたと思うが
一方で、蛇は何度も脱皮することから生誕を表す動物としても知られている。
それに、女性をセットで登場させることで、母性と生誕という一種のテーマが
完成し、この話は何を示していたかがわかるのである。
それにしても、誠に良い話をお聞きした。民俗学は学生の頃ついぞ
本格的に学ぶ機会はなかったけれども、こういうことなのかと実感。

ちなみに、ここでもご朱印を頂戴できました。


さて、次は伊達神社だ。ここは「いだて」と読む。
457号線を南下すると、すぐわかる。

この神社は延暦年間(782〜805)に田村麿利仁が蝦夷征討に来た際
甕など土器を多く用いて社地を選定した。
従って、延喜式神名帳に記載され、式内社となっている。
ところが、伊達氏がこの地を治める際には、同名であることを憚って
香取社と名乗ったこともあるという。
以降、羽黒山系の修験僧が代々宮司を務めた関係から、この神社も
多くの神仏習合の影響が見られる。
ちなみに、再び伊達神社となるのは明治5年である。

この神社は、古墳の上に社殿が建てられているのだが
これは実は鹿島神社も同じである。それに、今まで回った神社だが
大部分が仏教の影響を受けて、鐘ですとか、仏像を祀ったりしていた。
地理的にも出羽国との交通路でもあったこの地域は、修験道
広まりやすい土壌だったのだろう。

こちらは無人ではありませんでしたが
宮司さまの体が悪いとのことで遠慮しました。


えーと、後は「おかっぱさま」こと磯良神社にも行ったんですが
長くなりすぎたんで省略します。まぁ楽しいところではあったよ。