白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

9、県南その1・まぁまぁうーめんでも〜白石・角田〜

今日は晴れ、暖かい。
仙台にはほとんどいなかったんだけど
県南は昼の段階で12℃もあって、コートが暑くてしょうがなかった。
とはいえ…やはり夕方は冷えるね。


さ、今日は神社崇敬者連合会(略称・神崇連)の遠征報告だ。
つまり、去年の段階でリストに上がっていた
「県南その1・まぁまぁうーめんでも〜白石・角田〜」を実行したのである。
メンバーは会長の私と、同僚である仲間のHさんである。
てわけで、今回は白石・角田ってわけでじゃあ行ってみよう!


まず、時間も押していたってことで
高速を使い、白石まで行く。行かれた方はご存知だと思うが
白石城跡の脇のほうに、神明社がある。

白石城の奥側にあるからちょっとわかりにくいかもだけど
でも立派な神明鳥居だ。


これも神明造だが、典型的なものだけど
極めて丁寧な造りをしている。
この神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂の創建と伝わる。
以後、代々白石城主を務めた武将の尊崇厚く
特に片倉家は白石城の鎮守として、修復を怠らなかったという。
この坂上田村麻呂、実はいろいろなところで創建している。
去年行った登米市の横山神社も807年創建で、大崎八幡神社も創建したのが田村麻呂。
これには、源義家のように、蝦夷との戦勝祈願を求めて創建したともとれる。
なぜなら、八幡神社の祭神である応神天皇は武神であり、源氏の氏神としても
知られるからである。このほかにも田村麻呂は志波姫神社にも戦勝祈願に訪れている。
一方で、憶測に過ぎないが、こんな見方もある。
807年というと、田村麻呂はすでに右近衛大将であり、廟堂の臣であった。
そこへ、不穏な事件が起きる。
日本紀略』によると「繋宗成於左衛士府、按験反事。宗成云。首謀反逆是親王也」とある。
この「親王」とは伊予親王のことで、桓武天皇の第3皇子である。
すなわち、「藤原宗成を逮捕し、左衛士府にて尋問したところ、反逆の首謀者は親王なりと言った」
となる。その後、伊予親王は捕らわれ自決するわけだが
そのことと関連するのか、神明社を創建するのと同じ年なのである。
神明社は、祭神を天照大御神としており、伊勢神宮の流れを汲む神社である。
つまり、皇室との関係が深い神明社を創建する必要性はどうなのだろう。
さらに、実は前述した大崎市の大崎八幡神社だが、これも神明造である。
伊予親王の変があった年に、皇室の祖神を祭る神社を創建した田村麻呂は
どのような気持ちで建てたのか。気になる点である。


あ、もちろん。ここでもご朱印をいただけました。


次に向かうのは、その坂上田村麻呂を祭神として祀る田村神社である。
白石城から出て、国道4号を南側に向かう。まぁ看板もあるし
わかりやすいのではないだろうか。

こじんまりとした場所だが、一応管理はされている。
この神社は、800年頃に田村麻呂が蝦夷討伐に来た時、このあたりで
賊が暴れまわっているということを聞き、それを悉く退治した。
そのことに感謝した地元の住民が、田村麻呂を祭神としたとのことだ。
しかし、実は天照大御神も祭神となっていて、この関連性がやはり気になる。

社殿は極めて新しい。というか戦後のものではないだろうか…。
あと、ここには源義経の家臣・佐藤継信・忠信の妻の楓・初音の二人が
祀られている甲冑堂がある。この二人は、夫が戦死した後も自分たちが自ら甲冑をまとって
出陣したということで、理想的な夫婦として知られていて
甲冑堂の祭神となった。
とはいえ、甲冑堂は錠が下ろされていて、入れなかった。


ここでも朱印はもらえたけど
「旅行?立派なご身分ですねぇ」といわれた!
空いた時間をどう使おうと人の自由だろうが!


その後は、角田に入って熱日高彦神社へ。
角田は平野が多いところだが、この神社はちょっと山あいにあって
わかりにくいかも。でも有名な神社だから
たどり着けないってことはないと思う。

山一つが神社の敷地で、境内社も多いから広いといえば広いが
整備されているのは参道と社殿の周辺のみ。
だけど、簡易トイレとか、案内板とか、手作り感があって
不便の中でも、快適にお参りしてもらおうっていう努力を感じることができる。

後ろから見た鳥居。
この神社は、主祭神に天津日高火廻邇邇杵命(アマツヒダカニニギ)で
天照大御神より三種の神器と、三大神勅を授かり筑紫日向高千穗に天降した後
木花咲耶比売を娶り、火遠理命など三柱を生んだ。
で、この火遠理命の孫が神武天皇である。
従って、この天津日高火廻邇邇杵命は、皇室のご先祖でもある。
凄く長い名前だけど、実は一つ一つ意味があって
「天津」とは「天津神」のこと、「日高」は「彦」に通じて「男神」のことである。
であるから、本当の名前の部分が「ニニギ」となる。

なぜこんなところに祀られているかというと、日本武尊が東国平定に来た時に
この地の平定を願って、建立したのだという。
そのため、この神社では日本武尊も祭神となっている。
こういったいわれであるから、式内社であって、伊具郡総鎮守とも称している。


しかし残念。宮司さま不在につきご朱印いただけなかった。


次に向かったのが、天神社である。
ここは角田市中心部にあり、信金の向かい側に狭いけど入口がある。

天神社は当然、菅原道真の天神さまである。
神社には、いくつか基準はあるけども名前もそれである。
本社であれば「神宮、大社」と付く。
次に分社でも大きいものは「神社」
そして小さい神社は「社」となる。まぁ、これは一つの基準に過ぎないので
大きいところももちろんある。

この神社は、創建年代が不明ながら石川昭光がこの地に入封して以来
崇敬が厚く、石川氏の氏神として保護されたという。
ここの宮司さまの奥様が、お話好きで、いろいろお話をうかがったが
やはり、神社だけでやっていくっていうのは厳しいようだ。
この神社というのは、日本の大切な文化でもあるのだから
多少なりとも助成金を出すようにすれば、郷土愛の育成に役立つだろうし
神社の持つ史料や伝統芸能も保存されていくと思うのだが。


あ、ここでもご朱印をいただけました。


ここいらで、ほとんど日暮れになっていたが
天神社の奥様のご紹介をいただき、諏訪神社へ。

ここは国道沿いにあって、とてもわかりやすい場所にある。
だからほぼ帰り道だった。
この神社は、延元元年(1336)に、鎮守府将軍北畠顕家
義良親王を奉じて陸奥にやってきたわけだが、その時この地に
諏訪大社から分霊し、元々あった佐倉神社を合祀する形で創建した。
その後、伊達政宗が相馬氏と一戦交えんとこの地を通り
戦勝祈願を行った。
本殿が享和3年(1803)、拝殿が文化4年(1807)に建立され
石鳥居が安政4年(1857)に造営されたもので、よく江戸時代後期の特徴が
表れていることから、角田市指定文化財となっている。
鳥居の脇に、伊具郡総鎮守とあるが…一体どっちなんだろう。


宮司さまはとても気さくな方で
丁寧に対応してくだすった。もちろんご朱印もいただけた。


さて、このへんで今日の遠征を終了した。
やはり冬は日が短いから、巻きで移動した部分もあったなー。
さてさて、次はどこに行こうかしらね。