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聖人も必ず千慮に一失あり、愚人は千慮に一得あり

僕が私淑する支那春秋時代の政治家

晏子は、斉の大臣であり、清廉さと民に寄り添う姿は

斉国内でも大きな信望を集めていた。

そのため、彼にまつわるエピソードは多い。

晏子の言行録「晏子春秋」は、その真偽が疑問視されているが

単純に人生訓としてもためになる。

そこからいくつかご紹介したい。

 

ある日、晏子の衣服や食事があまりに粗末であることを臣下から報告された

斉の君主の景公は

「ああ、晏子の家がそれほど貧しかったとは知らなかった。これは寡人の

過ちである」と嘆いた。

そこで、景公は晏子に千金と租税を送り、賓客に遇するとした。

しかし晏子はこれを丁重に断った。

景公は大いに不思議がったであろう。

晏子はこう言った。

「わが家は貧しいわけではないのです」

つまりこうである。

既に晏子の家は君公の恵みで三族(父母、兄弟、妻子)が潤っている。

従って、決して家が貧しいわけではない。

しかし、斉の大夫は3つの方法で私財を満たしている。

一つは、君公から得た禄を民に施し、私恩とする者。即ち賄賂である。

二つ目は、君公から高い禄を得て民に施さず、籠にしまうようにすることである。

三つ目は、君公から得た禄を誰にも渡さず、ゆえに恨まれて死した後財産を奪われることである。

晏子

「十総の衣服、一豆の食、雨露をしのげる家さえあれば足りるのです」

と説いた。

景公はむっとしたのであろう、こう言い返した。

「昔、桓公管仲を用いた時、桓公管仲に五百金を送ったが、管仲は受け取った。

晏子は受け取らないと申す。いかなるわけであろうか」

これに対して、晏子は「聖人も必ず千慮に一失あり、愚人は千慮に一得ありと

申します。管仲は聖人ゆえ一失でしたが、私は愚人なので、これを一徳としたいのです」

と述べ、景公はひとまず晏子の言を容れた。

 

臣徳あれば禄を益し、徳なければ退く

 

また後日、景公は封邑を晏子に授けようとした。封邑とは、領地のことである。

すると、再び晏子は断った。

「私はこう聞いております。臣徳あれば禄を益し、徳なければ禄を退くと。

君公からの貰い物を受け、君公を満足させれば、多くの野心家が来て

いずれ君公が土地を失うことになりましょう。私は不肖の子でありますから

君公の贈り物を軽々しく受け、君公が滅びることを恐れているのです」。

このように晏子は、生涯を清貧に過ごし、宰相の地位にすがりつくこともなく

君主であろうと道理を通した。

呉の季札は、晏子に宰相の位から降りるべきだと進言し

晏子はその通りにした。すると、斉では政争が相次いだが

晏子は既に職を辞していたため巻き込まれることはなかった。

役職にすがりつき、不徳の者が過分な賞を受ければ「禍」となる。

今こそ晏子に学び、自分の立ち位置を見直してみることで

「禍」とならぬようにしたい。