第一党が首相にならない?戦前の首相の決め方とは。
今月終わりから、4月まで統一地方選が始まる。
さらに7月には、参院選も行われるということでまさに選挙イヤーといえる。
10月から消費税が増税するため、その影響も選挙に影響するとみられる。
戦前は第一党が首相になることは少ない
現在では、国会において首班指名選挙が行われ
国会議員の得票数が最も多い政党の代表者が内閣総理大臣になる。
しかし、戦前の帝国議会では必ずしもそうでなかったことはご存知だろうか。
国家を総覧するのは天皇陛下であり、国務大臣はそれを輔弼する役割であったから
天皇陛下より指名された人物が総理大臣になる(大命降下)のが通例であった。
とはいえ、天皇陛下が独自にお決めになる場合、それは絶対君主制である。
わが国では奏上について天皇陛下がいかにご不満であろうと、裁可するのが
決まりであった。英国式の立憲君主制を手本とされていたためである。
では、首相となる人物は誰が決めたのか。
キーパーソンとなったのが「元老」の存在である。
わが国で初の首相となった伊藤博文は、政党政治の確立を目指して
大日本帝国憲法の制定を主導し、1890(明治23)年無事に施行を見たわけだが
その2年前の1892年、伊藤、黒田清隆、山県有朋、井上馨、松方正義の5人による
元勲会議(黒幕会議)が行われた。松方内閣は指導力がなく、あっさりと総辞職
した上、後継首相を推薦する能力もなかったからである。従って、後継首相を
元老会議によって決定する必要があった。
しかし、伊藤はなぜ元老による首相推薦にこだわったのか。
伊藤之雄『元老ー近代日本の真の指導者たち』によれば、天皇陛下が
内閣総理大臣を指名されることについて、間に元老の存在があったほうが
首相が不適格であったとしても直接の責任を追及される恐れがないこと
そして、初期の政党政治は未発達なものであり、欧米などにみられる
二大政党政治には時期尚早と思われたためである。
薩長系の有力者たちの中でも、特に山県有朋は政党政治自体に反発していて
1900年に伊藤が立憲政友会を設立した時には山県は激怒し、伊藤と対立してしまうのである。
その後、伊藤系内閣(西園寺公望など)と山県系内閣(桂太郎など)が交互に入れ替わるが
最大で、前述の5人に、大山巌、西郷従道を加えた7人が元老として君臨する。
もともとは「元勲優遇の詔」を受けた人物が元老とされたが
これは憲法の規定にはないため、当然それに対する批判も存在した。
1908年には報知新聞が英国の政党政治を見本に、憲法上根拠のない元老が
政治を牛耳っていると批判した。読売新聞も、元老の存在がある限り
立憲的国家は望めない、とまで書いているのである。
元老は最終的に、西園寺公望が補充され、最後の元老として少しずつ権力は
縮小されていったが、西園寺薨去後は総理大臣経験者らでつくる「重臣会議」が組織され
それを受けて、天皇陛下の大命により首相が決まることとなる。