白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

権力闘争と「禅」の心

出る杭は打たれる、とは古今東西同じである。

余り権力を持ちすぎると、いかに二心を持っていなくても

粛清されてしまうのである。

 失脚しなかった「親切な祖父」カリーニン

近代の国家で言えば、ソビエト連邦で絶大な権力を振るった

スターリン政権下、言語を絶する大粛清が行われた。

レーニン死後に権力を争ったレフ・トロツキーを筆頭に

同志たちに次々と「反革命」「スパイ」「無能」のレッテルを貼り

失脚させたのである。これにより、5人の元帥のうち3人が粛清されるなど

対独戦中でもどちらが敵味方かわからない状態となったほどである。

その粛清を主導したNKVDの長官を務めたニコライ・エジョフや

ラヴレンチー・ベリヤなどもことごとく粛清された。

「狡兎死して走狗煮らる」とはよく言ったものである。

しかし、その中で依然として権力を保持し続けたのが

ミハイル・カリーニンである。彼は、「オールド・ボリシェヴィキ」と呼ばれる

レーニン時代からの幹部で、スターリンが政権を握っても

失脚することなく、ソ連最高会議幹部会議長などを歴任した。

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ミハイル・カリーニン。国民からは「親切な祖父」と呼ばれた

スターリン政権の段階ですでに名誉職にいたため、脅威と見なされなかったようであるが

それでも大粛清の最中には、危険を顧みず救済の手を差し伸べたこともあったという。

ドイツ東プロイセンが戦後に、ソ連領となりカリーニングラードとなったが

名前はカリーニンからとられている。

カギは「権力欲」か

また、支那の国民党政権においても権力闘争が激しかったが

この時も、孫文時代からの古参党員・林森も失脚することなく

政治生命を全うした。

さて、このように彼らは闘争を生き延びた

というよりも、むしろ脅威と見なされなかったことが大きい。

つまり、権力欲やそれぞれの利害により争うことがなかったのだ。

この闘争は、この社会ではよくあることである。

グループができれば、どうしても主導権争いが起きる。

グループは個人の集まりで、それぞれが独自の価値観や自己達成感を持つからである。

周囲を平安たらしめたければ、己が平安であるべし

そこで僕は最近、一つの言葉を思い出した。

『禅-ZEN-』という映画がある。曹洞宗の開祖・道元にスポットを当てたものであるが

その中で

簡単に仏さんには出会えぬのだよ、人間は誰もがあれが欲しい

これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいと貪り、思うようにならぬと腹が立って

愚かなことをしてしまう。そのようなもので目隠しをしているから、仏が見えぬのだ

と諭すシーンがある。

また、北条時頼に招かれた時には

あなたが右手に権力を握った時、左手に苦しみを握ったのです。

執権とは、いみじくも権力にとらわれると書きます。

このとらわれこそが、あらゆる苦しみのもとなのです。

 と述べている。我が意を得たり、と思った。毎日毎日忙しく動き回っては

仕事だ党だと、自分と向き合うことが余りない。

禅宗の教えとは「只管打坐(しかんたざ)」に尽きる。

ひたすら座禅を組み、自らの仏と向き合う。自らの執着心を捨てる。

それにより、他者を受け入れることができ、余裕が出てくるのではないか。

自ら執着を捨て、平安であり続ける。それが他も平安にするのではないか。

その平安こそが、権力闘争を遠ざけ、人生を豊かにすることができるのではないか。

アップル創業者のスティーブ・ジョブスなど、禅に自らの在り方を求めた経営者は多い。

お寺では参禅会をやっているところが多い。

僕も一度は行ってみようかな、と思う次第である。

 

上皇陛下の御称号に関する一つの話題

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先日、君臣の発展を神宮にお参り申し上げ奉った

 

本年は天子様がご譲位遊ばし

元号が制定される年である。5月1日の東宮殿下のご即位に際し

臣下としてなお一層の忠勤に励む所存である。

 

上皇陛下の御称号について

 

さて、天子様がご譲位遊ばし、上皇陛下に御成り遊ばす。

いわゆる「天皇退位特例法」によれば

「前条の規定により、退位した天皇上皇となる」とあるからだ。

天子様は天皇陛下である。しかしてご譲位遊ばした後に「上皇」とお呼びするのは何故か。

もともとは「太上天皇」や「太行天皇」とお呼びした。それが略されて

太上皇」または「上皇」とお呼びすることとなったわけである。

意味としては、『史記』に「太上は無上なり。皇は徳、帝より大なり。

故にその父を尊び太上皇と号す」とあるのが答えと言えよう。

また、わが国においては「オリイのミカド」とお呼びしたり

「院」とお呼びしたことも多い。例えば「後鳥羽院」「後白河院」と

お呼びしたのである。百人一首でも知られていよう。

「仙洞」とお呼びすることもあるが、お住まいになる場所を指したのである。

皇太子殿下を東宮殿下とお呼びするのは、内裏の東側にお住まいになって

おられたのと同じように、お住まいになる仙洞御所が上皇陛下を示すように

なったのである。

治天の君」とお呼びすることもあるが、この時は「院政」を行い遊ばす時で

白河上皇に始まったとされている。

 

天子様へますますの忠勤を誓う

 

さて、天皇陛下を今や天子様とお呼びすることに何ら疑問のある人はおるまいが

そもそも、「天子」という言葉は『礼記』『書経』など枚挙に暇がない。

その他にも「万乗」「聖上」「至尊」といった支那的表現や

「スメラミコト」「スメラギ」「日御子」といった和風表現

「御門」「禁裏」など、お住まいになるところでお呼びすることがある。

折口信夫大嘗祭の本義』や河内春人『日本古代君主号の研究』などでも

その変遷などについて述べられているから、ご参考いただきたい。

また『漢書』には「上は天子と自ら謂うなり」とあって、よく時代劇で

将軍のことを「上様」というが、これは誤りで「上」と申せば天子様のことを言った。

(もちろん時代の権力者が違えば、意味が変わることもあり得るわけだが)

権力者でいえば、近代の君臣の関係を表す一つの例を出したい。

帝国議会において、貴族院の佐々木惣一議員がこのようなことを言っている

上に聖天子あり、下に愛國先覺の國民あり、又事務的に精勵の當局あり、斯くの如く上下一致して長年月の努力の結果、漸くにして成立しましたる所の帝國憲法が、其の發布以來今日に至る迄幾十年、是が如何に大いに我が國の國家の發展、我が社會の進歩に役立つたかは、茲に喋々する迄もありませぬ

上に天子様がおわして、下に愛国でかつ賢明なる国民がおる。そして勤勉なる当局が

いて、そのように上下が一致して長年の努力の結果成立した帝国憲法

わが国家や社会の進歩にいかに大いに役立ったかは、ここに断定するまでもない

という意味である。

誠にわが意を得たりの思いである。

この際において帝国憲法の是非を論ずるのは避けるが、しかしてわが国の

あり方は、根源のところで不変なのである。

実は名門だらけ!伊達家の家臣団

このブログにおいて、伊達氏のお話については何回か言及した。

そもそも伊達氏家中は、中央集権化というより

大身の家臣が多く、それらは石高と家格によって表されていた。

例えば、伊達政宗随一の側近の一人である片倉小十郎景綱の片倉家は

家格は一門、白石1万8000石を領し、白石城一国一城令の例外として残された。

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白石市では甲冑行列も行われる

また、同じく重臣として活躍した茂庭綱元も、家格は一門、松山(現大崎市)1万3000石を

領した。仙台藩自体の石高が大きかったこともあろうが

それにしても、分権化を進めることは家臣の発言力強化に繋がり

お家騒動の要因にもなり得るのである。

(実際、伊達騒動とよばれるお家騒動も、家臣団の権力闘争とみられている)

 

縁戚で勢力広げた伊達家

 

さて、なぜ家臣団はこれほどまでに力を持ちえたのであろうか。

伊達氏が奥州の覇者になった過程に、その要因を見ることができる。

伊達氏は政宗の代に限らず、その3代前の稙宗の時代でも

奥州の覇者たりえる領土を保有していた。稙宗は単に戦いによって

領土を拡張するだけではなく、近隣の諸大名と縁戚関係を築き

自らの影響下に治めたのである。

主な豪族だけでも

・大崎氏(奥州探題宮城県北を領する)

・葛西氏(桓武平氏の名門。宮城県東部を領する)

・亘理氏(同じく桓武平氏の名門。宮城県南部を領する)

が挙げられる。さらに、越後守護・上杉定実に息子の実元を養子として送り込もうとした。

しかし、相馬氏に対して領土割譲も進めていたことから、嫡子・晴宗をはじめとする家臣の

猛反発に遭い、周囲の大名を巻き込んで「天文の乱」が発生する*1

この乱は、幕府の調停により、稙宗の隠居で収束するが

伊達氏の影響力は著しく衰退してしまった。

しかし、この縁戚による拡大路線は政宗まで続くこととなる。

それに加えて、政宗は家臣を召し抱えることに意欲的だったから

各地の浪人や改易された大名が伊達氏を頼ることが多かったようである。

お隣、山形58万石を治めた最上氏は、伊達氏と血縁関係*2にあったから

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山形城跡。最上氏改易の後は小規模な藩が治めるようになる

最上義俊の代で改易されると、その家臣の多くは伊達氏に召し抱えられた。

小野末三氏『羽州最上家旧臣達の系譜』によると、「それまでの両家の深い結びつき

から、でき得る限りの救済の手を差し伸べたものと思われる」と述べており

氏家常継や伊良子氏といった名の通った家臣のほか、関ヶ原の合戦で東軍に寝返った

脇坂安治の弟の安景も伊達氏に再仕官している。

また、山形ではないが松前藩松前慶広の七男・安広も伊達氏で仕官しているし、最上義光と争って敗北した

天童頼澄も伊達氏に再仕官し、その子孫は重臣として活躍した。

さらに、武田信玄の父・信虎の十男重次も仕官しており、各地の名族の血筋が生きているのだ。

 

南朝の忠臣も伊達家に仕官

 

さて、その中で注目したいのが、白河義親の存在である。白河氏は奥州の名門中の名門。

下総結城郷に住んだことから結城氏を名乗り、祐広の時代に白河城(福島県白河市)を居城としたため

白河氏を名乗った。その子の宗広は南北朝時代南朝方として活躍し

北畠顕家が奥州鎮守将軍として統治を始めると、式評定衆の一人に任じられた。

まさに、伊達氏と並ぶほどの名家なのである。

しかし、義親の時代に豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となり

浪人となっていたところを伊達氏に召し抱えられた。

領地は鬼首(大崎市)1000石を領した。

 

名門の矜持は衰えない、白河の戦い

 

注目すべきはその後である。義親の9世後の当主・邦親の代に

戊辰戦争が勃発、東北にもその戦火が及んできた。

新政府軍を迎え撃つ奥羽越列藩同盟が重視したのは、何を隠そう白河城である。

関東と東北の境目でもあり、奥州街道の要衝に位置するこの城は

何としても守らなければいけない地であった。

当時、白河城天領となっており、二本松藩が管理していたから

あっさりと同盟側に接収された。

邦親は、この時先陣に立つべく出陣し、3個小隊らと白河に赴いた。

この時、「殿のご帰還」ということで旧家臣の子孫約170人が馳せ参じたそうだ。

木村紀夫氏『仙台藩戊辰戦争 幕末維新人物録282』によると

「旧主の末裔が来たと旧蔵の武具に身を固めて馳せ参じ先鋒となり戦った」

とある。士気は天を衝かんばかりであり、白河城を守護する同盟軍3000人、大砲

10門の大部隊が死守の構えを見せた。

慶応4年5月1日に新政府軍の攻撃により始まったこの大激戦で

仙台藩はわずか一日で参謀・坂本大炊と軍監・姉歯武之進ら高級指揮官や

約100人が死傷するなど大損害を被り、白河城は落城してしまう。

それでも同盟軍は、会津藩家老の西郷頼母指揮の下

白河城を一時奪還するなど、総力戦を展開したが

新政府軍の増援もあり、撤退を余儀なくされた。

白河から撤退した白河邦親は、秋田藩の寝返りに対応すべく秋田口に転戦した。

戦後、家臣たちの食い扶持がなくなると

邦親は田畑や家宅を全て売り払い、家臣に分け与えた。

その子の基広は、伊勢結城神社宮司として宗家・結城氏の祭祀を守ったほか

軍人として陸軍士官学校教官となったという。

主家に報いるその忠義、家臣に報いる恩義はさすが名門白河氏

といったところであろう。こういうエピソードがあるから伊達氏の勉強は

やめられない。読者諸氏も地元の領主の歴史を調べてみてはいかがだろうか。

きっと、おもしろい発見があるはずである。

*1:伊達氏の家紋「竹に雀」はこの時に上杉氏から送られたという

*2:政宗の母が最上義光の妹

厳しいばかりではない!施設も充実していた兵営生活

昨日、僕の祖父が満州事変に従軍したことは述べた。

今回は、兵営について述べようと思う。

先日書いた通り、わが国では徴兵制があったため

誰でも疾病などがない限り、兵役につくことになっていた。

兵役法によれば、現役兵は2年となっている。

つまり、1年目は二等兵として軍隊の基礎を学び、体力を鍛え

2年目は一等兵に昇進して除隊となる。その中でも優れた成績を残した者は

上等兵に進級する。希望者は、下士官任用教育を経て軍隊に残ることが可能。

不思議なのは、僕の祖父の場合、1月に入営して7月に一等兵、一年で上等兵

なっている。ちょっとした謎だったりする。

仙台に司令部があった第二師団の中核を成した歩兵第四連隊は、兵舎がそのまま

残されていて、仙台市歴史民俗資料館として活用されている。

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当時の兵営における生活風景が再現されている

寝台を中心に撮影したが、銃置き場や戦時中の新聞も展示されていて

とても興味深い。この兵舎がある榴ヶ岡公園は、敷地が広いだけではなく

丘のようになっていて、伊達政宗仙台城を築く際、候補地の一つであったと伝わる。

先日、祖父が支那事変で負傷したと書いた。そのタイミングが不幸中の幸いであったというのは

対米英戦でガダルカナル島の戦いで、歩兵第四連隊2458人のうち、1906人が戦死したという

事実からしても、非常に厳しい戦いであったことを示している。

とはいえ、戦時中でなければ兵営の生活というのも(私刑というものがなければ)

決して悪いものばかりとも言えない。三食給料付き、医療・娯楽・福利厚生施設完備

ってわけばかりではなく、社会的な地位も高かったという。

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機関銃を用いた教練の様子。和気藹々とした様子が微笑ましい

日常の教練風景がアルバムに残っていたので一部をご紹介する。

十一年式軽機関銃と思われるが、もちろんいきなりやれ!となるのではなく

マニュアルがきちんと準備されていて、その上で実際に操作してみるわけである。

このようにさまざまな教練が施され、最後に演習を行って成果を師団長に見ていただいて

終了というわけである。

祖父は2年で下士官適正証書を交付されて満期除隊し、すぐに応召となった。

ちょうど満州事変が始まったからである。それからは昨日のブログの通りだ。

なお、背後に見える白い建物が現在の仙台市歴史民俗資料館である。

詳しい兵営での生活を知りたい方は、藤田昌雄氏「写真で見る日本陸軍兵営の生活」

に詳しい。非常に参考になるので、オススメだ。

 

写真で見る日本陸軍兵営の生活

写真で見る日本陸軍兵営の生活

 

 

満州事変に従軍した祖父の名誉を守る!

最近、書類を次から次へと作成しては送る作業ばっかやっていて

デスクトップがエライことになってしまったこともあり

少しずつではあるが、昔の写真やらファイルを整理している。

そうすると、数年前に祖父のアルバムをデジタル化したものが出てきた。

これは、せんだいメディアテークの事業で、「仙台の昔の風景写真募集」に

応じて提供したもの。

祖父のアルバムは、いわゆる入営アルバムというもので戦前わが国は

徴兵制を敷いていたから、その時の出来事をアルバムとしてまとめたのである。

満州事変に従軍、現地の写真も

祖父は第二師団に所属して昭和6年から昭和7年まで満州事変に参加し

昭和5年頃にはすでに満州の一部には駐屯していた)

その間に上等兵下士官へとなった。

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昭和5、6年の祖父。吉林に駐屯していた

祖父はこの時のことを戦後「朝鮮人を助けたんだ」と父や叔父に話していたそうだ。

つまり、「支那人をいじめてやろう」という気持ちで従軍したわけではないということである。

これは強調しておきたい。

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九一式戦闘機。わが国初の単葉機である

これも支那で撮影されたものとみられるが、詳細不明である。

祖父は陸軍歩兵であったから、この写真はたまたま飛行場か何かで

見かけたものを撮影したのだと推測される。

単葉機とはいえ、やはりまだ複葉機の名残を残した機体である。

それでもわが国の航空機産業は世界の先端を行っていて

支那軍閥相手には圧倒的な攻撃力を発揮した。わが国が本格的な機甲師団を相手にするには

昭和13年の張鼓峰事件を待たなければならない。

奇しくも祖父はこの昭和13年に作戦行動中に負傷し、招集解除となった。

もしこの時点で戦死したり、逆に健在であっても、対米英戦で戦死したであろうことを

考えると、このタイミングで戦場を離れたのは不幸中の幸いといえる。

(昭和17年ガダルカナル島での戦いで第二師団は

ほぼ壊滅した)

侵略者、虐殺者と言われることへの怒り

日本共産党中共どもは、満州事変に参加した日本兵を鬼畜のごとく話す。

しかし、リアルでその子孫である僕からすれば、祖父は断じてそのような

人ではなかった。それは、戦後に大学教員についた祖父の戦時中の行状について

大学からGHQへ祖父は戦争犯罪人ではないし、それに加担したこともないという

覚書を提出していることからもわかる。

従って、彼らの言葉は祖父はもとより、子孫である僕への侮辱以外の何物でもない。

僕は祖父と、その戦友や上司、部下の皆さまの名誉を守るため、今後も闘い続ける。

新元号はどうなる?これまでの元号の付け方

平成31年を迎えて半月が過ぎた。

何とも時が過ぎるのは早いものである。

4月には、畏くも今上陛下がご譲位遊ばす。

天子様がお隠れにならずにご譲位遊ばすわけで、東宮殿下のご即位の儀は

心より寿ぎ申し上げることができそうである。

ちなみに、天皇にご即位なさることを「践祚」というが

これは単に帝位にご即位されることを言い、三種の神器を受け継ぎ

それを内外に宣することにより、正式にご即位ということになる。

 

近代の元号はほとんど古典から

 

巷が気になってしょうがないのは、新元号がどうなるか、であろう。

「平成」は『史記』「五帝本紀」の「内平外成」または書経から取っている。

その前の「昭和」は『書経』の「百姓昭明、協和万邦」から取っている。

つまり、代々元号というのは支那の古典から取るのである。

最も最初の元号は、「大化」であり、初の元号であるから「建元」という。

『歴代天皇年号事典』によれば、『尚書』の「肆予大化誘我友邦君」から

とっているという。

 

実は古代ならではのこんな元号

 

とはいえ全ての元号が古典からとっているわけではない。

実は大化の後、「白雉」の由来はそのまま「白い雉」のことを指す。

大化6年に、穴戸国司が白い雉を捕獲し、朝廷に献上した。

これを吉祥と考えた朝廷は、「白雉」と改元したのである。

その他にも、「朱鳥(赤い鳥)」「神亀(白い亀が献上されたことによる)」といった

瑞祥とみられた場合は改元しているのである。

また、「和銅」は「和同開珎」で有名であるが、秩父郡から銅が産出したことを受けた

ためである。そのため、秩父市ではそれを記念するモニュメントもある。

さらに、聖武天皇の御代、国内で初めて陸奥国から砂金が産出したため

天平感宝」と改元を行った。この時の陸奥守・百済王敬福従五位上から従三位へ叙任。

地方の長官から公卿へと一気に大出世を遂げたことからも、朝廷の喜びようが

わかろうというものである。

つまり、改元による元号の決め方というのは、特に古代は必ずしも古典によったわけではない。

しかし現在、わが国では「一世一元の制」といい、何度も改元ができないようになっている。

従って、新しい時代はどういう元号にすべきか、有識者が頭を捻るわけである。

元号の成り立ちを考えてみると、必ずしも古典に限る必要はないのかもしれない。

いずれにせよ、私達がこういう時代でありたいと思えるような、夢のある元号を希望したいものだ。

先端技術が歴史の謎を解明するカギに

史料は必ず正しいとはいえない

 

僕は何か調べ事をする時、wikipediaを使うことが必然的に多くなる。

しかし、wikiを必ずしも妄信しているわけではない。

例えば「晏子春秋」とは、僕が私淑する斉の名宰相である晏嬰の言行録だが

これには、時代的な裏付けがほとんどなく

晏子を題材に小説を著した宮城谷昌光氏ですら史料的価値を重視していない。

文字史料というのは、書かれているものを読み、整合性だとかに気を付ければ

非常に雄弁である。それがため、その取扱いには慎重であるべきであろう。

wikiでは記事により、ほぼその史料で完結させる項目も散見できるのである。

もちろん、それは近代の戦史においても同じである。

また例を出すと、昭和19年10月、フィリピンのシブヤン海に沈んだ

戦艦武蔵は生存者の証言もあるのだが、その沈没直前の猪口艦長の言動に

それぞれ食い違いがみられるほか、公式な戦闘記録である「戦闘詳報」についても

途中、担当士官が戦死ないし記録不可となったため、後から生存者からの聞き取りや

近隣で活動していた軍艦の戦闘詳報を参考にしているのである。 

同じことは大和にも言えることで、平成11年の潜水調査を皮切りに、数次にわたる

潜水調査で、新しい発見があったり、史料の裏付けがとれたりしている。

最近発見された武蔵についても、潜水調査が進むことを期待したい。

 

最新の方法で調査結果を中継・共有を

 

このような水中考古学は特殊な技術必要であるため、まだ研究者は少ないが

例えば、九州工業大学社会ロボット具現化センター長で

(一社)ラ・プロンジェ深海工学会の浦環代表は

潜水艦「伊58」「呂50」のロボット探査による特定プロジェクトで

「伊58」は「伊47」であることが判明させるなど、大きな成果を残している。

大きな課題は、もちろん資金面であり、本プロジェクトでは

クラウドファンディングで資金調達に成功、その成果をニコニコ生放送

中継するなど、非常に先進的な方法で発信した。

私ももちろん協力させていただき、調査報告書をpdfファイルでいただいた。

行政でできない部分は民間で調査することができる面が多い。

ぜひ、先端技術の活用で今まで立ちはだかってきた壁をブレークスルーし

新発見が続くことを期待したい。

 

dic.nicovideo.jp