権力闘争と「禅」の心
出る杭は打たれる、とは古今東西同じである。
余り権力を持ちすぎると、いかに二心を持っていなくても
粛清されてしまうのである。
失脚しなかった「親切な祖父」カリーニン
近代の国家で言えば、ソビエト連邦で絶大な権力を振るった
スターリン政権下、言語を絶する大粛清が行われた。
同志たちに次々と「反革命」「スパイ」「無能」のレッテルを貼り
失脚させたのである。これにより、5人の元帥のうち3人が粛清されるなど
対独戦中でもどちらが敵味方かわからない状態となったほどである。
その粛清を主導したNKVDの長官を務めたニコライ・エジョフや
ラヴレンチー・ベリヤなどもことごとく粛清された。
「狡兎死して走狗煮らる」とはよく言ったものである。
しかし、その中で依然として権力を保持し続けたのが
ミハイル・カリーニンである。彼は、「オールド・ボリシェヴィキ」と呼ばれる
スターリン政権の段階ですでに名誉職にいたため、脅威と見なされなかったようであるが
それでも大粛清の最中には、危険を顧みず救済の手を差し伸べたこともあったという。
ドイツ東プロイセンが戦後に、ソ連領となりカリーニングラードとなったが
名前はカリーニンからとられている。
カギは「権力欲」か
また、支那の国民党政権においても権力闘争が激しかったが
この時も、孫文時代からの古参党員・林森も失脚することなく
政治生命を全うした。
さて、このように彼らは闘争を生き延びた
というよりも、むしろ脅威と見なされなかったことが大きい。
つまり、権力欲やそれぞれの利害により争うことがなかったのだ。
この闘争は、この社会ではよくあることである。
グループができれば、どうしても主導権争いが起きる。
グループは個人の集まりで、それぞれが独自の価値観や自己達成感を持つからである。
周囲を平安たらしめたければ、己が平安であるべし
そこで僕は最近、一つの言葉を思い出した。
『禅-ZEN-』という映画がある。曹洞宗の開祖・道元にスポットを当てたものであるが
その中で
簡単に仏さんには出会えぬのだよ、人間は誰もがあれが欲しい
これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいと貪り、思うようにならぬと腹が立って
愚かなことをしてしまう。そのようなもので目隠しをしているから、仏が見えぬのだ
と諭すシーンがある。
また、北条時頼に招かれた時には
あなたが右手に権力を握った時、左手に苦しみを握ったのです。
執権とは、いみじくも権力にとらわれると書きます。
このとらわれこそが、あらゆる苦しみのもとなのです。
と述べている。我が意を得たり、と思った。毎日毎日忙しく動き回っては
仕事だ党だと、自分と向き合うことが余りない。
禅宗の教えとは「只管打坐(しかんたざ)」に尽きる。
ひたすら座禅を組み、自らの仏と向き合う。自らの執着心を捨てる。
それにより、他者を受け入れることができ、余裕が出てくるのではないか。
自ら執着を捨て、平安であり続ける。それが他も平安にするのではないか。
その平安こそが、権力闘争を遠ざけ、人生を豊かにすることができるのではないか。
アップル創業者のスティーブ・ジョブスなど、禅に自らの在り方を求めた経営者は多い。
お寺では参禅会をやっているところが多い。
僕も一度は行ってみようかな、と思う次第である。