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満州事変に従軍した祖父の名誉を守る!

最近、書類を次から次へと作成しては送る作業ばっかやっていて

デスクトップがエライことになってしまったこともあり

少しずつではあるが、昔の写真やらファイルを整理している。

そうすると、数年前に祖父のアルバムをデジタル化したものが出てきた。

これは、せんだいメディアテークの事業で、「仙台の昔の風景写真募集」に

応じて提供したもの。

祖父のアルバムは、いわゆる入営アルバムというもので戦前わが国は

徴兵制を敷いていたから、その時の出来事をアルバムとしてまとめたのである。

満州事変に従軍、現地の写真も

祖父は第二師団に所属して昭和6年から昭和7年まで満州事変に参加し

昭和5年頃にはすでに満州の一部には駐屯していた)

その間に上等兵下士官へとなった。

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昭和5、6年の祖父。吉林に駐屯していた

祖父はこの時のことを戦後「朝鮮人を助けたんだ」と父や叔父に話していたそうだ。

つまり、「支那人をいじめてやろう」という気持ちで従軍したわけではないということである。

これは強調しておきたい。

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九一式戦闘機。わが国初の単葉機である

これも支那で撮影されたものとみられるが、詳細不明である。

祖父は陸軍歩兵であったから、この写真はたまたま飛行場か何かで

見かけたものを撮影したのだと推測される。

単葉機とはいえ、やはりまだ複葉機の名残を残した機体である。

それでもわが国の航空機産業は世界の先端を行っていて

支那軍閥相手には圧倒的な攻撃力を発揮した。わが国が本格的な機甲師団を相手にするには

昭和13年の張鼓峰事件を待たなければならない。

奇しくも祖父はこの昭和13年に作戦行動中に負傷し、招集解除となった。

もしこの時点で戦死したり、逆に健在であっても、対米英戦で戦死したであろうことを

考えると、このタイミングで戦場を離れたのは不幸中の幸いといえる。

(昭和17年ガダルカナル島での戦いで第二師団は

ほぼ壊滅した)

侵略者、虐殺者と言われることへの怒り

日本共産党中共どもは、満州事変に参加した日本兵を鬼畜のごとく話す。

しかし、リアルでその子孫である僕からすれば、祖父は断じてそのような

人ではなかった。それは、戦後に大学教員についた祖父の戦時中の行状について

大学からGHQへ祖父は戦争犯罪人ではないし、それに加担したこともないという

覚書を提出していることからもわかる。

従って、彼らの言葉は祖父はもとより、子孫である僕への侮辱以外の何物でもない。

僕は祖父と、その戦友や上司、部下の皆さまの名誉を守るため、今後も闘い続ける。