白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

人材を活用するということ

「子皮は子産を達せり」という言葉をご存知だろうか。
これは孔子の言葉で、子皮を高く評価したものとしてよく知られている。
子産も子皮も、支那春秋戦国時代の政治家である。鄭の国の大夫であった。
鄭は、周王朝を中心とする中原にある国で、爵位も高い国であるが
北に晋、南に楚という大国に挟まれ、事あるごとに右顧左眄することを余儀なくされていた。
そのような中で誕生したのが子産である。
もともと子産は父が大臣であったから、そのあとを継ぐのは自然な流れなのであるが
鄭では権力闘争が頻発したため、大臣(卿)の座が巡ってくるのは遅かった。


ここで初めて子皮の名前が出てくる。正卿(首相)であった子皮は、子産の才能に目を付け
あっさりと正卿の座を子産に譲り、自らは大夫となった。
さて、子産が大臣として着手したのは、晋と楚の講和である。
即ち、鄭が両国に挟まれているなら、逆にその立場を利用して仲介に入ったわけだ。
また、内政面においても、農地改革・税制改革などさまざまな新制度を実施した。
軍事面においては、隣国の陳を電光石火のごとく征服するなど、子産の名は天下に轟いた。
が、改革は反発を生む。
次々と出される制度に国内から怨嗟の声が出始めると、それに便乗して
子産を権力の座から引きずり落そうとする政敵が出てくるものである。
そこで活躍したのが、子皮であった。彼は子産よりも名門かつ立場は上である。
子産討伐の陰謀を知り、子産が亡命しようとしていると聞けば
子皮はその政敵のもとに乗り込み「お前は鄭を滅ぼす気か!」と陰謀を止めさせ
子産には帰国するよう説き伏せた。
その後も、子産に攻撃の矛先が向かう時は、子皮が盾となって守った。
子皮は人望が厚く、政界では重鎮であったから、あえて逆らおうという愚者はいない。
子皮が庇護者である間、子産は存分に腕を振るうことができた。


孔子は、この子産の功績はもちろんだが、子皮の子産を重用した点について高く評価し
「子産と管仲(斉の名宰相)は優れた人物である。しかし、彼らは子皮や鮑叔(管仲を推挙した大夫)のように
優れた人物を用いていないではないか」と述べている。
孔子はある意味捻くれた人物であるから、このような見方をするのは彼らしい。
だが、国家百年を考えるならば、人材という面に着目した孔子の観察眼はさすがというべきだろう。
私も子皮のようにはいかないかもしれないが、多くの埋もれた人材の能力を引き出し
活躍してもらいたいと思っている。

あきつ丸の乗組員は海軍?陸軍?

大東亜戦争といえば、太平洋を戦場にしていたこともあって
独ソ戦などと比べても、海軍にスポットが当たりがちである。
島しょ戦を展開するに当たって重要なのは、制海権だからだ。
帝国海軍といえば、世界で2位の規模を誇り、緒戦では米国・英国どころか
それらの連合艦隊に対しても圧倒したことでも知られる。


ところで、あまり知られていないことだが、帝国陸軍も軍艦を運用していたことは
ご存知だろうか。大発や小発といった上陸舟艇のことではなく
現在の強襲揚陸艦の先駆けともいえる上陸舟艇母艦「神州丸」や「あきつ丸」である。

Wikipediaより、昭和19年改装後のあきつ丸)


あきつ丸は昭和17年竣工した陸軍の軍艦で、排水量はおよそ9000トン
全長は150メートルにも達した。大発を最大27隻搭載可能で
飛行甲板を備えており、航空機の発着艦も可能という、極めて多機能な軍艦であった。
これまで、敵地への上陸というのは将兵が輸送船に乗り込み
目的地まで海軍に護衛してもらうことがセオリーだった。
軍歌「歩兵の本領」で「しばし守れや海の人」とあるのは、このことを指す。
しかし、わが国はシーレーンを軽視したがため、海軍の護衛艦だけでは
敵潜水艦などに狙われる輸送船をカバーすることはできなかった。加えて、陸海軍の連携は乱れに乱れ
陸軍では独自で輸送船と護衛艦の機能を担う軍艦の必要性に迫られたのである。
あきつ丸は、蘭印作戦に従事、陸軍の快進撃の一翼を担ったが
その後はもっぱら輸送任務に従事し、昭和19年11月五島列島沖において敵潜水艦により撃沈された。


主な艦歴と概要は以上のとおりだが、気になるのは乗員であろう。
乗員は海軍なのか、陸軍なのか、というところは非常に気になった。
そこで調べてみると、あきつ丸や神州丸といった軍艦は、平時においては
上部構造を設置し、商船として運用されていたようである。
両艦ともに所属は日本海運とされ、他の商船と同様、戦時となれば
乗組員はそのまま軍属として勤務する。つまり、乗組員は平時では民間企業の社員だが
戦時となれば軍人に准ずる扱いを受けており、そのために企業は補助金を支給されていたのである。
しかし、軍属だといっても敵は容赦などしてくれない。
あきつ丸だけでなく、多くの商船が輸送船として徴用され、多くが乗員とともに沈んだ。
トラック島では、今でも多くの船が沈んでおり、それらは引き上げられずに漁礁となっていることから
ダイビングスポットとしても知られている。
総力戦を表す一つのケースが、このあきつ丸を始めとする商船群の悲劇であるといえよう。

人気脚本家が経験した「いじめ」とジレンマ

僕が「好きな脚本家」を挙げるとしたら
真っ先に思いつくであろう方が、岡田磨里さんである。
「心が叫びたがってるんだ」「あの時見た花の名前を僕たちはまだ知らない」をはじめ
様々な作品の脚本を手掛け、一筋縄ではいかない生々しい表現に定評がある。
「マリーの時点で不穏」などはよく言われている。
その岡田さんが、自らの半生を描いた
「学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで」
を上梓した。

本書では、岡田さんが登校拒否児童だった中学校から
大ヒット作を生み出すまでの過程を描いている。
僕は、これを読んでいて、胸が痛くなった。
岡田さんは小・中学生と極めて思慮深い子どもだったようであるが
そのためにさまざまな不安も抱えることになってしまった。
すると、クラスでも浮いた存在になってしまうのは目に見えている。
そのような少女がいじめの標的になるのは難しいことではない。
その辛い時期に手を差し伸べるべき大人がおらず、親御さんも厳しかったことが不幸に拍車をかけた。
岡田さんはそうやって育った。
「あの花」で主人公のじんたんは登校拒否の生徒で、近所の目を気にしながら生活しているが
これは岡田さんの経験をもとにしているという。
岡田さんはその少女時代を極めて比喩的でありながら、ストレートに描いている。
この文章力には心から唸らされた。


極めて難しいのは、その経験が作品に活かされ、多くの人に影響を与えたが
不幸な少年少女時代は、やはりないほうが良いのではないか。
しかし、その経験がないと名作が生み出されることはなかったかもしれない
そんなジレンマが我々に問いかけられることである。


子どもは、親を選ぶことができない。
アラブの富豪の家に生まれるかもしれないし
アフリカの難民キャンプに生まれるかもしれない。
しかし、後者であろうと子どもは生まれた境遇に文句をいうことはあまりない。
なぜか。
モラル・マゾヒズムといって、子どもはそもそも生まれた境遇そのものに
不満は持たない。例えば「何でうちは貧しいの?」という疑問は出てくるにせよ
子どものうちから「何でこの親から生まれたんだろう?」という不満はまず出てこない。
だからこそ、その子どもを育て上げる義務が親に生じているのだ。


一方、岡田さんと違い不幸な終わり方をするケースもある。
仙台市では、この3年間で3人の中学生が自ら命を絶った。
いずれもいじめを苦にしての自殺。
非常に悲しい出来事である。13歳の若い命が失われてしまったのだ。
しかし、誠に残念なことに、教育学をかじった人間なら習うことだが、いじめは無くならない。
社会において、異質なものを排除するというのは本能だからである。
最近では「スクールカースト」という構図が適切であろう。
「いじめをなくそう」と学校は標語を掲げる。しかしその学校がいじめはなくならないものだと
わかっているのである。理想は結構だが、現実に向き合うことを拒否しているともとれる。
ではどうすればいいか。いじめの実態を素早く把握し、いじめられている生徒のケアを
適切に実施することである。
生徒を孤独にせず、生きがいを見つける手伝いをすることだ。
これは単に教員に多くを求めるだけではない。地域や他の家庭を巻き込んで
生徒との交流を日常的に行うことも重要といえる。デュルケームの「自殺論」によれば
社会的につながりが深ければ自殺率は低下する。増してや外部の人であれば
スクールカーストなど関係ないのだし、課外活動にもなる。コミュニケーション力の向上にも役立つ。
岡田さんの半生を描いた本書を読み、僕はこの思いを強くしたのである。

文在寅政権誕生、親北政策なら強硬姿勢を

昨日、朴槿恵前大統領の失職に伴って実施された
大韓民国大統領選挙で「共に民主党」が擁立する文在寅(ムン・ジェイン)氏が
当選、第19代大統領に選出された。
文氏は1953年巨済島生まれ、慶熙大学法学部卒業。
大学在学中には民主化運動に関与し、少なくとも2度の逮捕を経て
卒業後は弁護士となった。
弁護士時代から後に大統領となる廬武鉉氏と盟友関係にあり
民主化運動に取り組んだ。
廬武鉉氏が政界入りしてからは、側近として重用され
大統領秘書室長などを歴任。
09年の同氏死去の際は、葬儀委員長を務めた。
12年の総選挙では民主統合党から出馬、初当選を果たした。
同年12月には大統領選挙に出馬したが、朴槿恵氏に敗れた。
今回、朴槿恵氏が弾劾されたことで大きく支持を獲得し、圧倒的大差で勝利した。

青瓦台に向かう文氏(5月10日付け中央日報


文氏は経歴からもわかるとおりリベラル的なポジションに位置する人物で
親北朝鮮であるということも有名である。
一方対日政策では、竹島への上陸を行ったほか従軍慰安婦問題に関する日韓合意の見直し
朝鮮統治時代の清算について言及するなど、反日的思想を持つ政治家としても知られる。


これに対して、保守派が多く利用するという韓国のネット掲示板「日刊ベスト(略称、イルベ)」では
「日本のビザが出た、お先に行くね」と韓国脱出を仄めかすスレッドが立ち
「おめでとう」「俺も連れていってくれ(泣)」などと羨ましがる声が上がった。
一方、日本では文氏の大統領就任を大きく報じる一方
「どうせ誰がなっても同じ」と冷ややかな反応が大多数だ。
わが国政府も「日韓合意の再交渉はせぬ」と事実上突っぱねた。
確かに、韓国にわが国に対する挑発行為は相変わらずであろう。
しかし、唯一の懸念材料は、対北政策である。
わが国は米国や東南アジア諸国らと連携し、対北朝鮮に対して
圧力を強めることで一致している。ところが、ここで韓国が廬武鉉政権のような
太陽政策」を掲げれば、北朝鮮への国際的な圧力に綻びが生じかねない。
反北的であった朴槿恵政権と違い、文政権が誕生すれば
わが国は米国などを巻き込んで、南に対してもプレッシャーをかける必要性が出てくるだろう。
我々は十分我慢し、譲歩を重ねてきた。それでも足らぬというのならば
逆に強硬姿勢で臨むしかないのではないだろうか。

在特会役職退任のごあいさつ

普段、在特会の活動にご協力とご支援を賜りまして誠にありがとうございます。
さて、このたび在特会としましては、決算その他におきまして
多くの皆さまにご迷惑をおかけしております。
心よりお詫び申し上げますとともに、この一連の騒動を収拾できなかった責を取り
今月を持ちまして在特会会長代行副会長ならびに宮城支部長を辞任することを決断いたしました。


この一連の騒動につきまして、まだ精査し切れていない部分もあることから
詳細をご報告することは私の一存では致しかねますが
在特会内部と、その他の団体との交渉役として、昨年末からさまざまな提案や
在特会リバイバルに向けたプランニング等に取り組んでまいりました。
その結果、多くの皆さまから在特会の再評価を頂けたことは大きな成果と自負しております。
しかしながら会内部ではトラブルが発生しており
その収拾のため、他の執行役員と共に働いて参りましたが
八木会長の補佐の任を果たすことかなわず、これ以上過失を重ねることを防ぐため
今回の措置を決断致しました。


私は平成22年4月に宮城支部設立とともに在特会へ入会致しましたから
実に7年、在特会にはお世話になったわけであります。
その間、さまざまな経験をさせていただきました。
宮城支部の運営をはじめ東北地区会員の皆さまには、感謝してもしきれません。
そして公私に渡りお世話になった北海道から九州の皆さま
これまで無能無策の若輩者に熱心にご指導、ご励声いただきましたこと
決して忘れるものではありません。心より御礼申し上げます。
入管特例法廃止という大目標を達することができず、残された皆さまに
託すことは大変心苦しいことでありますが、今後も行動保守の要として
ご活躍を心より祈念するものです。
皆さまに置かれましては、今後も変わらぬご支援、ご声援を在特会に賜りますよう
お願い申し上げ、私の退任のご挨拶とさせていただきます。


菊地 内記 拝

ふくろう「我々はかしこいので」

実は本日、まちなかにできたというふくろうカフェとやらに行ってきた。
ふくろうカフェとは、ふくろうが店の中にいて、それを眺めたり
触れ合ったりしながらお茶を楽しむもの。
仙台の中心部には2店舗あるが、今日はふくろうカフェRickyというところに行った。
事前にどんなふくろうがいるのか調べていったが
ふくろうだけでなく、爬虫類やうさぎなどもいるとわかった。


さてどういうお店なのかなあと思ったら
カウンターが5席ほどテーブルが7,8席くらい。
で、その両側に止まり木が用意されていて、ふくろうがとまっている。
初来店であることを告げると、若い女性の店員さんが
慣れた口調でふくろうとのふれあい方や、注意するべき点を教えてくれる。
ここは、フリードリンク制、固定料金で、いつまでいても980円(税抜き)。
ふくろうは、オオフクロウ、メンフクロウ、ユーラシアコノハズク、ワシミミズクなど。
ヒルやうさぎ、イグアナ、ヘビなどもいてちょっとした動物園だ。
ふくろうの止まり木は人の胸くらいの高さなので、なでることもできる。
ただし、口元に近づけると噛まれるし、お腹あたりを触られると嫌がられるらしい。
一番いいのは頭を優しく撫でること。最初はおっかなびっくりだが
慣れるとかわいいものである。


店員さんに言えば、ふくろうを腕に止めてくれる。
ふくろうの爪は猛禽類らしく本当に鋭い。それで分厚い手袋を着用する。
僕が選んだのはユーラシアワシミミズクけものフレンズでは博士と一緒に
「我々は賢いので」「この島の長なので」と偉そうなキャラではあるが
実際はやはりでかいのだ。羽を広げると1メートル以上にはなるんじゃないか。


店員さんは本当に生態に詳しい。
そういえばサーバルは「夜行性だからね!」と言っていたが
ふくろうはどうなのだろうと聞いてみると
朝、夕、夜のパターンがあるのだという。
例えば、目が黒いふくろうは暗闇でも目が見えるようになっており夜行性。
オレンジ色の目であれば、日暮れの頃に活動を始める夕行性。
黄色であれば朝に活動する朝行性というものらしい。
ちなみに、他のフクロウが寄っていくと口を鳴らすことがある。
これは警戒している証なので、できるだけ他のフクロウを寄せないようにしているそうだ。
けものフレンズを見て来たんですよ」と言ったら
「そういえばフクロウのキャラがいましたよね!」と言っていた。
やっぱ知ってるんだろうな。客層も、女性が多いかと思いきや
半々くらいの割合だった。
こっちが気を遣って、あまりリラックスはできなかったが
ふれあいは楽しかった。また行きたいものである。
(ふくろうを飼うのは無理そうだなぁ)

尊敬する初代支部長

「菊地さんが尊敬する人はいますか?」
とは、活動する上で何度も聞かれた言葉である。
本日報では、歴史好きな僕が歴史上の人物を幾人か評論してきた。
晏子のように、心から尊敬し、私淑している人物もいれば
ヘンリー・モーゲンソーのように親の敵のように見ている人物もいる。


では、「活動において」尊敬する人物は・・・?と言うと
初代の在特会宮城支部支部長を務められた秋津昭夫氏である。
(誰やそれ?)と思われる方がほとんどであろうと思う。
活動の時期は決して長い方ではなかったし、東京や関西地区に出ることも
あまり好むタイプではなかったからだ。
しかしその分、地元での活動は極めて濃密で、抗議するにしてもその方法はとてもスマート
人を評価することが上手で、理性的な人柄も尊敬を勝ち取るに充分であった。


こんなエピソードがある。
支部内において、活動方法をめぐり激しい議論になった時
秋津支部長は自身の意見は言わず、黙って他の運営の意見を聞いている。
あらかた意見が出尽くした頃合いで
「皆さんの言い分はわかった。こうします!」
とはっきりと断を下すのである。
誰に対しても分け隔てなく接していて、僕も何回か飲みに連れていってもらい
いろいろと教えていただいたものだ。
普段は人当たりの良いおにいさん、という感じであったが
活動ともなると、人が変わったかのように先頭に立って
反日左翼を叩き出せー!」とやるギャップも、魅力の一つだった。


そんな秋津支部長が一度大激怒したことがある。
参院議員の桜井充事務所に、外国人参政権ついて賛成か反対かを
問い質しに行った時だ。
そのときは若い男性の秘書が対応したのだが
「桜井も思想は右である」「法案が出てこないとわからない」と
言を左右にしてはっきりしない。
とりあえず賛成しないよう厳重に申し添えて事務所を後にしたのだが
秋津支部長は烈火の如く激怒していた。その原因は――。
「この俺に向かって『それは日本人としておかしい』と言いやがった!」
件の秘書は、何が気に食わなかったのか、秋津支部長が外国人参政権について
問い質した時(どんな言葉だったか忘れたが、大したものではなかったと思う)
「その言葉は日本人としておかしくないですか?」と指摘したのである。
このことからわかるように、秋津支部長は真に日本人として誇りを持って活動を行っていた。


残念ながら、秋津支部長は転勤のため、1年ほどで支部長を退任せざるを得なかったのだが
宮城支部設立時に決めた柱は、愚直に守り続けている。守株といわれようと
私たちには一番なのだと信じているからである。
それから6年以上が経った。秋津支部長が戻ってきた時
迎えられるように、今でも僕は席を空けて待っている。