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日本第一党選挙対策委員会委員長とかいろいろやっています。

歴史の連続性

最近、というかずっとだけど…。
歴史を基本から学んでいる。といっても、通史的なものを
読んでいるだけだが。そこで、やはり歴史は連続的なものであることがよくわかる。
例えば、ドイツとオーストリアの関係である。
これはいろいろな見方で考えられておもしろいのだが
専制君主制を考える上で、血統というものは避けて通れない切り口である。
もともと、ドイツとオーストリアが同じ国であったことは既に知らない人はいないと思う。
十字軍でドイツ人でつくるドイツ騎士団が創設され、巡礼者保護などの任務についたが
やがて、現在のバルト海沿岸に北方十字軍という形で遠征し、ドイツ騎士団国をつくった。
ところで、プロイセン西プロイセンと東プロイセンに分かれているが
プロイセンプロシア公国領として残り、西プロイセンはポーランド王国の一部となった。
15世紀初めには、ホーエンツォルレン家がブランデンブルク選帝侯として、プロイセンを領した。
一方、ドイツ本土の神聖ローマ帝国ハプスブルク家が治めていた。
ハプスブルク家も、もともとドイツ王であったわけではない。
13世紀に、ドイツ王に選出されたハプスブルク伯が初代である。
以降、紆余曲折はあったものの、神聖ローマ帝国ハプスブルク家が君臨することになる。
一方、プロイセン地方のホーエンツォルレン家は、少しずつ帝国から独立志向を強めていった。
といっても、この時のプロイセンはまったくのど田舎で、隣接するポーランド王国は大国だった。
そのため、プロイセンポーランド王国に従属を余儀なくされるのである。
そんな帝国も、ナポレオン侵攻のため解体を余儀なくされ、ハプスブルク家
もともとの本拠地だったオーストリア皇帝を名乗ることになるのである。その間、プロイセン
ポーランドとの戦いを繰り広げながら、順調に領土を拡大していった。
ホーエンツォルレン家の宿敵は、ポーランド王国ないしはポーランド・リトアニア共和国だったが
ポーランド国内でウクライナ・コサックの大規模な反乱が勃発。
それに乗じてロシア・ツァーリ国スウェーデンなどがポーランドに侵攻。
プロイセンポーランドから独立し、ポーランドは極端に弱体化。3国によるポーランド分割が行われたのである。
一方、ハプスブルク家は一向に奮わなかった。そんな中の19世紀、プロイセンはついに
オーストリア帝国と戦端を開く。これが普墺戦争である。
この時、すでにドイツ諸国はプロイセンオーストリア両方の陣営に分かれていて
統一国家は存在しなかった。この戦争では、プロイセンが勝利を収め
オーストリア帝国は、ハンガリーを加えたオーストリア=ハンガリー帝国を形成する。
ハンガリーはもちろんそうだが、オーストリア多民族国家だった。それが、後に大きな悲劇を生む。
一方でプロイセンは、完全にオーストリアから主導権を奪い、ドイツ帝国を建国する。
従って、ドイツ帝国はホーエンツォルレン家、オーストリアハプスブルク家である。
ところで、この時、民族主義が盛んになった時期でもある。そんなわけで、同じドイツ系の
ドイツとオーストリアは親密な関係となった。だが、前述のようにオーストリア多民族国家だったから
他の民族はドイツ系民族の優遇を快く思うわけがない。それがサラエボ事件の引き金となり
第一次世界大戦が始まるのである。
その結果、ドイツとオーストリアは敗北し、両帝国は革命により解体の憂き目にあった。
ポーランドは、海へ抜けるためにポーランド回廊の割譲を要求し、数百年ぶりに奪還に成功した。


さて、ここまで見れば、その後の因果関係もおのずと見えてくるのではないだろうか。
ナチスが政権を握った後、大ドイツ主義を掲げて、同じドイツ系のオーストリアを併合し
ポーランド回廊の割譲を要求し、第二次世界大戦が始まった。
ドイツ騎士団以来の悲願である東方への領土の拡張を目指してソ連と開戦した。
もちろん、それだけが第二次世界大戦の発端ではない。
ただ、歴史の連続性という意味では、この流れ…面白くはないだろうか。


実は、ドイツの国歌『皇帝』だがオーストリア帝国の国歌でもあった。
もともとはハイドンオーストリア皇帝に捧げたものであり
この『皇帝』とは、実はオーストリア帝国の皇帝を指すものである。