白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

枢軸勢もし勝ったなら?「高い城の男」が配信中

「高い城の男」という作品をご存知だろうか。
1963年、フィリップ・K・ディックにより発表された小説のタイトルである。
第二次世界大戦において、大日本帝国ナチス・ドイツがもし勝利したなら?
という時代設定のもと、日独双方に分割されたアメリカを舞台に
「高い城の男」が製作したとされる正しい歴史のフィルムを巡って
日本・ドイツ・レジスタンス組織が暗躍するというものだ。
2015年にamazonが本作をドラマ化し、大きな話題となったものの
当時はまだ日本語訳がついていなかった。
しかし、シリーズがシーズン3まで進み、わが国でも知られるようになって
ようやく日本語訳の配信がスタートしている。


せっかくの連休ということもあり、台風の影響で特に用事もなかったから
「高い城の男」を視聴している。
日本は、西海岸側に「アメリカ太平洋岸連邦」
ドイツは、東海岸とテキサス周辺までを「アメリカ合衆国」を設置し
その間に「ロッキー山脈連邦」という緩衝国家を設置
それぞれ統治している。
太平洋岸連邦は、日本人が多く入植しており
日本語が使用されている。易や武道も流行しており、東洋的である。
一方、合衆国はナチズムが浸透しており、総統への忠誠が絶対視されている。
技術や軍事力はドイツが日本を凌駕しているが、人種的多様性は日本のほうが豊かである。


実際のところ、このようなことは可能なのだろうか。
結論からいうと万に一つもあり得ない、というのが現実であろう。
わが国は緒戦こそ破竹の進撃で占領地を広げたが、そこで力尽きた。
海軍による豪州占領作戦が俎上に出た時も
陸軍が到底不可能であるという理由で実現を見なかった。
一方のドイツも、バトル・オブ・ブリテンでつまづくと
その矛先を転じてソ連に攻め込み、自ら二正面作戦へと突入した。
仮に、英国本土を占領し、米国へと攻め込もうにも広い大西洋を渡って
どのように米国本土に大軍を送り込むのか。機動部隊を持っていなかったドイツ海軍は
少ない戦力を分散させ、専ら通商破壊作戦に従事していたのである。
つまり枢軸国側に有利な条件で講和に持ち込むことはできても
米国そのものを占領することはあり得ないのである。
そのあり得なさをあえて作品にするというのが、本作の魅力の一つで
例えば、軍服一つとって見ても、「陸軍の軍服は昭和13年制式のものになっていない」とか
「傀儡国の政府首班はガーナーでなくリンドバーグになりそうだ*1」とか
空想は膨らむ。
そのような中で繰り広げられる絶妙な人間ドラマやアクションは
実に心を動かしてくれる。
アマゾンプライム会員であれば1,2シーズンは無料。ぜひ視聴してみては。

*1:ナチスゲーリング空軍元帥に敬意を抱いていたリンドバーグは、アメリカ第一委員会を立ち上げ、対日戦の反対運動や反ルーズベルト運動を展開した

デンマークの隠れた戦争犯罪…

ヒトラーの忘れもの」という作品をご存知だろうか。
1945年5月、ナチス・ドイツが降伏した後、14人のドイツ軍少年兵は
デンマークに移送される。彼らを待っていたのは、ドイツ軍が
浜辺に埋設していった地雷の除去。その指揮を取るデンマークのラスムスン軍曹は
他のデンマーク人同様、祖国を占領したドイツに憎悪感情を持っていた。
少年兵たちを殴打し、口汚く罵るラスムスン軍曹だったが
地雷処理に当たる彼らが一人、また一人と地雷の犠牲になっていくのを目の当たりにし
この任務に疑問を持ち始め、少年兵たちと心を通わせるようになる…というもの。

本作は史実を基にした物語で
ドイツ軍捕虜はおよそ2000人がデンマーク当局により
地雷の撤去作業に従事させられ、その半数以上が死傷しながら
150万個以上の撤去を行った。
その作業に従事した捕虜のうち、大部分は少年兵だったという。
ドイツ人少年兵は、何も知らないまま「ヒトラーの忘れもの」の後始末をさせられるわけだ。


本作では、少年兵がいかに粘り強く
ドイツに帰ることを夢見ながら作業に当たっていたかが
非常に細かく、かつ繊細に描かれている。
もしこれがハリウッド映画だったら
「やってられるか!脱走しようぜ!」とどこからか武器を持ってきて
デンマーク軍とドンパチをやり始めるようなシチュエーションだ。
しかし少年兵たちは「作業を終えたらドイツに帰す」というラスムスン軍曹の言葉を信じ
危険な作業に従事しながらドイツの未来を語り合うのである。
これは非常に共感を覚えた。少年兵の役者も皆、言葉では余り表現しない。
表情で複雑な感情を表現している。まさに見事だと思った。
ただ、シーンが盛り上がるところはあまりない。戦争映画ではないし
前述のように脱走シーンも特にはない。従って、スリルを求める人には
単調で退屈に思えるかもしれない。


ところで、僕はこの出来事を知らなかったわけだが(映画なので、当然全てが事実ではないだろう)
なぜ少年兵がこの危険な作業に当たっていたのだろうか。
地雷の信管を抜いたりするのに、手が小さいと便利なのだろうか。
また、なぜ捕虜の虐待を禁じたジュネーブ条約に違反してまで
早急に地雷を撤去しなければいけなかったのか。戦後のドイツ政府に賠償や無償撤去を求めてはいけなかったのか。
いくつかが素朴な疑問として残った。

核兵器の不拡散は不可能である

昭和20年の本日は、広島に原子爆弾が落とされた日である。
10万人を超える無辜の民を虐殺し、その後遺症に苦しむ方は
未だに大勢いらっしゃるわけである。
本日、広島市で執り行われた慰霊式典では、安倍晋三首相が
「真に『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。
我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です」
と述べ、式辞の中には核兵器不拡散条約の主導的な役割を積極的に担っていく決意を盛り込んだ。

(あいさつを述べる安倍首相、首相官邸より)


周知のように、原子爆弾の投下は欧米においては
終戦に導くためにやむを得ず投下した」と主張する人が多く
米国政府もまたそのような姿勢を崩してはいない。
言語道断であって、米国政府はもはや帝国陸海軍が大規模な作戦行動を行える状態に
ないことは把握していた。早期終戦を目指すならば、わが国を丸裸にするような
過酷な条件をつけなければよいだけの話ではなかったか。
今や米国政府に対して謝罪も賠償も求めても詮無いことではあるが
れっきとした戦争犯罪であったことは認めなければならない。


米国の原爆開発については、ドイツから亡命したアルベルト・アインシュタイン
ロバート・オッペンハイマーといった科学者によるものが大きい。
アインシュタインはドイツでも核実験が進められていることを知っており
米国大統領宛てに速やかな原爆開発を要請している。
戦後、わが国では湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したが
湯川博士が訪米した際、アインシュタイン湯川博士に謝罪したそうである。
「日本に落とすつもりはなかった。ドイツが怖かったのである」とのことだ。
アインシュタインは、「史上最高の頭脳」と言われながら、こうして晩節を汚すこととなった。
現在を生きる私達に何ができるのか。
率直に言って、何も取り組むことはできぬであろうというのが結論である。
核兵器保有国は増える一方だし、特に北朝鮮は国際的な批判を無視して核兵器開発を進めている。
支那、ロシア、イランなどはどれほど核開発を進めているのかわかったものではない。
今や世界で最も強力な爆弾はソ連(当時)が開発した「ツァーリ・ボンバ」で
広島に投下された原爆の約3300倍の威力を誇る。
国際的な枠組みで管理しようにも、その中に入るのを拒否する国もある。


世界的に拡散している核兵器
不拡散へと条約によってコミットする。
その努力自体は否定しないが、果たして将来に渡って
継続することができるのか。疑問は尽きない。

気を付けろ!仙台人に伊達家ディス

今年、仙台藩祖・伊達政宗公の生誕450周年を迎えるということで
仙台市ではさまざまなイベントが目下開催・企画中である。
僕も仙台市民として、政宗公の「貞山政宗公遺訓」を部屋に飾るほど敬愛しているが
ところで、政宗公はさまざまな呼び名があることはご存知だろうか。
現在、われわれは「政宗公」「伊達政宗」で普通に通じる。
が、そもそも「政宗」というのは諱であるから、おおやけには慎む呼び方であった。
そこで、政宗公を指す呼び方はいろいろと著されている。

有名なのは「貞山公」である。仙台藩主は、薨去した場合「山号」が付いたから
政宗公の山号である「貞山」が政宗公を指すのである。
ちなみに「貞山掘」は水運のために整備した運河であるが
政宗公時代には完成しなかった。だが、後に政宗公の功績を称える意味で名付けられたわけだ。


ところで、仙台藩主を指す呼称はといえば
「仙台宰相」…宰相とは、総理大臣のことではなく、参議の別名である。政宗公以降参議に任じられる藩主はなかなか
出てこなくなり、最後の慶邦公まで待たなければならない。従って、「仙台宰相」といえばこの2人のいずれかを指す。
「松平陸奥守」…松平といえば、徳川家の一門にあたる家柄ということであるが、功績著しい武将にも松平の姓を
名乗ることを許した。つまり「松平氏」は大勢いるわけだが、伊達家は陸奥国主であることから
陸奥守の独占が許可され、それ以外の大名家では陸奥守を名乗ることは許されなかった。
最も、政宗公の次男・忠宗公の正室には徳川家から振姫を迎えたわけで
徳川家の親族でもあるのだが。


ところで、桜井誠氏が以前「伊達政宗は実は戦は下手だった。しかし内政は非常に有能だった」と
評したことがある。少しばかり異論を述べたい。
確かに、大崎合戦において伊達勢は黒川晴氏の裏切りにあい、敗北に近い和睦を強いられたり
人取橋の合戦では、多勢の佐竹・芦名連合軍に苦戦した。
だが、摺上原の戦いで芦名氏を叩き潰し、慶長出羽合戦においては上杉景勝に攻められた
山形の最上義光に援軍を送るとともに、自身は福島に侵攻しているのである。
さらに大坂の陣では、後藤又兵衛を打ち取るなどの活躍を見せている。
もちろん、伊達家には伊達成実片倉景綱・重長親子、茂庭綱元、遠藤基信など
まさに粒ぞろいの家臣団の存在も大きい。
伊達家ほど文武のバランスの取れた家臣団もなかなかおるまい、とかなりの自信を持っていえる。


ここまでつらつらと書いてきたが
いかに仙台人が政宗公を誇りに思っているかご理解いただけるであろう。
ぜひ仙台人に伊達政宗の話題を振る時は
くれぐれもディスることのないよう、気を付けてほしい。

仙台空襲に学べ!

昨日、7月10日は昭和20年に仙台空襲が行われた日である。
戦前から仙台は東北鎮台が置かれ、第2師団司令部の拠点でもあった。
師団は、ケースにもよるが1〜2万人からなる。
また、陸軍幼年学校・東北帝国大学など、学術機関も充実しており東北地方の要の都市であった。
さらに、大規模な航空機組み立て工場、弾薬工場など、産業面でも極めて大きな役割を果たしていた。


昭和20年7月9日、マリアナ諸島から飛び立った第21爆撃機集団の123機のB-29
10日未明、高度3000メートルから仙台市に侵入、一斉に焼夷弾を投下した。
これに対し、わが防衛部隊は高射砲約14門のほか、約10機が迎撃に離陸したものの
高高度を飛行する敵爆撃部隊に有効な反撃手段は限られており
米軍の作戦報告書によると「攻撃したきたのはわずか1機だった」と記されている。
ともあれ、米軍の爆撃隊にはほぼ反撃できず、仙台は一夜にして焦土と化した。
特に仙台市中心部は壊滅的被害を受け、一番町・国分町周辺は特に被害が多かったようだ。
これにより、伊達政宗公の霊廟である国宝・瑞鳳殿は焼け落ち、何より貴重な命が失われた。
仙台市社会課による調査では死者828人としているが、戦後の調査では2700人を超えるものもあり
その幅は大きい。というのは、仙台に在住していた者の中で、仙台に住民票がなかった人もいたからである。
また、仙台では「公会制度」を導入しており、これは隣組組織のようなものであるが
それに入っていない人もいたようである。

その後も、女川町や松島町など、宮城県内の沿岸部を中心に艦載機による空襲が
頻発し、終戦までのおよそ1か月間、東北地方は断続的に敵機の姿に脅かされることになった。
岩手県釜石市では、何と艦砲射撃も行われており、もはやわが国には
都市部をまともに防衛する能力が残っていなかったことが如実に表れている。


もちろん、これらは戦争犯罪である。
指揮官は処罰されていないどころか、米国ではわが国に対する無差別空襲を
擁護する声さえある。とんでもない話だ。
確かに国土を防衛する責任は政府と軍部にある。しかし、無抵抗である
一般市民を虐殺することを正当化することはできない。
もちろん、戦後70年以上が経った今、米国に戦争犯罪を問うことの難しさは承知している。
しかし、この明らかな戦争犯罪についてわれわれが語り継ぐことによって
犠牲となられた方々が少しでも浮かばれるよう祈っている。
ここで大事なのは、戦争のない世界だとか無抵抗主義だとか非現実的な話ではない。
二度と我が国土の上空に敵機が侵入できない防備体制の構築である。
シナの度重なる領空侵犯、北朝鮮のミサイル問題など脅威は目の前にある。
今こそ、憲法9条のくびきから解き放たれ、防備を厚くすることにより
都市への空襲といった悲劇を断ち切るべきである。
それが、われわれの世代に課された使命なのだと、強く考えている。

仙台空襲に学べ!

昨日、7月10日は昭和20年に仙台空襲が行われた日である。
戦前から仙台は東北鎮台が置かれ、第2師団司令部の拠点でもあった。
師団は、ケースにもよるが1〜2万人からなる。
また、陸軍幼年学校・東北帝国大学など、学術機関も充実しており東北地方の要の都市であった。
さらに、大規模な航空機組み立て工場、弾薬工場など、産業面でも極めて大きな役割を果たしていた。


昭和20年7月9日、マリアナ諸島から飛び立った第21爆撃機集団の123機のB-29
10日未明、高度3000メートルから仙台市に侵入、一斉に焼夷弾を投下した。
これに対し、わが防衛部隊は高射砲約14門のほか、約10機が迎撃に離陸したものの
高高度を飛行する敵爆撃部隊に有効な反撃手段は限られており
米軍の作戦報告書によると「攻撃したきたのはわずか1機だった」と記されている。
ともあれ、米軍の爆撃隊にはほぼ反撃できず、仙台は一夜にして焦土と化した。
特に仙台市中心部は壊滅的被害を受け、一番町・国分町周辺は特に被害が多かったようだ。
これにより、伊達政宗公の霊廟である国宝・瑞鳳殿は焼け落ち、何より貴重な命が失われた。
仙台市社会課による調査では死者828人としているが、戦後の調査では2700人を超えるものもあり
その幅は大きい。というのは、仙台に在住していた者の中で、仙台に住民票がなかった人もいたからである。
また、仙台では「公会制度」を導入しており、これは隣組組織のようなものであるが
それに入っていない人もいたようである。

その後も、女川町や松島町など、宮城県内の沿岸部を中心に艦載機による空襲が
頻発し、終戦までのおよそ1か月間、東北地方は断続的に敵機の姿に脅かされることになった。
岩手県釜石市では、何と艦砲射撃も行われており、もはやわが国には
都市部をまともに防衛する能力が残っていなかったことが如実に表れている。


もちろん、これらは戦争犯罪である。
指揮官は処罰されていないどころか、米国ではわが国に対する無差別空襲を
擁護する声さえある。とんでもない話だ。
確かに国土を防衛する責任は政府と軍部にある。しかし、無抵抗である
一般市民を虐殺することを正当化することはできない。
もちろん、戦後70年以上が経った今、米国に戦争犯罪を問うことの難しさは承知している。
しかし、この明らかな戦争犯罪についてわれわれが語り継ぐことによって
犠牲となられた方々が少しでも浮かばれるよう祈っている。
ここで大事なのは、戦争のない世界だとか無抵抗主義だとか非現実的な話ではない。
二度と我が国土の上空に敵機が侵入できない防備体制の構築である。
シナの度重なる領空侵犯、北朝鮮のミサイル問題など脅威は目の前にある。
今こそ、憲法9条のくびきから解き放たれ、防備を厚くすることにより
都市への空襲といった悲劇を断ち切るべきである。
それが、われわれの世代に課された使命なのだと、強く考えている。

同じ「田中」でも対極な二人

本日より、東京都議選がスタートした。
相変わらず有力会派のみがクローズアップされているわけだが
日本第一党の岡村幹雄候補もまた、志を持って戦っている人である。
今は泡沫かもしれないが、いずれ真の政党としての真価を発揮することが
できると確信している。


さて、地方議員というのは国政と直接関係がないため
より地域のことを知る必要がある。
そのためには、「このまちをこうしていきたい」という
明確なビジョンを持ち、高い志を持って有権者に訴えることが重要だ。
そして、それをどのように多くの人に発信するか。
周囲も当然だし、候補者本人もよくよく勉強しなければならない。
もちろん、ある程度の地方行政への知識も必要となる。
地方行政は、教育・子育て・医療福祉・建設・商工業・農水産まで多岐にわたる。
市長選によく元職員などが出馬することがあるが、多くの場合は副市町村長や総務部課長だったりする。
これは、市長に次ぐ権限も持つだけではなく、様々な分野に関わるエキスパートだからである。
首長になる人は行政との関係が円滑に進めることが最低条件として求められる。
従って、身内が首長となれば関係が悪化することもないというわけだ。
珍しいのは、田中康夫長野県知事で、あの人ほど職員とやり合った人はいないのではないか。
それでも田中元知事が長期政権を保てたのは、住民に圧倒的な人気があったためである。
例えば、挨拶回りで県のお偉いさんに名刺を渡した時
「知事ねえ、社長が社員に名刺を渡すのは潰れる会社ですよ」
と言い放ち、田中知事の名刺を折り曲げてしまった人がいた。
それが報道されるや否や、県庁には苦情が殺到。当のお偉いさんは、辞任を表明したが
田中知事に慰留され、「田中旋風」とも言える状態が発生した。


一方、公務員出身でもないのに行政と円滑に事を進めたのは、田中角栄である。
彼は「できることはやる、責任は全て私がとる」と公言し
部下の学歴はもちろん、何期卒で順位まで覚えたほか
実際に「できる」「できない」を明確にした人でもあった。
誰かが何かをお願いに行くと、話を聞いてすぐに手を打つ。
余計な話をすると「早くしろ」と怒られたそうだが、これは実行力の高さを表している。


同じ田中姓であっても、これほど対極の性格をした二人だが
どちらが正解であるということはないだろう。
結局のところ、いかに国民・県民のためになったかということに尽きる。
これから、選挙のラッシュである。ぜひ、候補者の皆さんは
行政との付き合い方や、部下の活用方法も考えながら選挙戦を戦ってほしい。