白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

松島・利府へ!

久々に、神崇連の活動を行うことができたのでご報告する。
今回の目標は、松島町の紫神社と利府町の伊豆佐売神社であって
必ずしもご朱印にはこだわらない方針。


最初は松島町の紫神社に行こう。
45号線をひた走り、松島海岸を抜けてしばらくすると
松島駅が見えてくる。線路に沿って走り、明神踏切を渡るとすぐに着く。

敷地は極めて広いし、鳥居も立派なものだ。
この神社は、松島の総鎮守であって、元々は蛇ヶ崎にあったものを
治承4年(1180)に当地に遷宮、紫神社と改称した。
というのも、源義経がこの地を訪れた際に戦勝祈願を行い
「村崎明神」と称していたところを源氏の旗印と同じ「紫」に
書き換えたというのだ。
さて、しかしどうだろう。紫神社という名前、どこかで聞いた覚えがあるな。
そう、栗原市にある牟良佐喜神社だ。最も、こっちは字が違うわけだが
去年11月に行った時、村さ来みたいだって書いたよな?
で、あっちの牟良佐喜神社は、京都・紫野神社の分霊を受けたということだったが
祭神に食い違いがあって、どうも腑に落ちないってことだった。
ところが、こっちの紫神社の祭神は「天御中主神」なのだが、この神様は
天地開闢の際に初めて姿を現し、天下創発を行った神様とされているが
実は、栗原の牟良佐喜神社の祭神は「神皇産霊尊高皇産霊尊」であって
この三神こそが、天地開闢に姿を現した「造化三神」なのである。
「むらさき」という名前に、祭神の一致というのは
この両社の共通点として、何かのヒントにならないだろうか。
恐らくは、それが牟良佐喜神社が紫野神社から分霊を受けたのに祭神が違うことへの
答えにもなると思う。

こちらに宮司さまがいてはったんだけど
ご朱印的なものはやってないってことで諦めました。
でも、鐘とかあるし、仏教の影響も多分に受けていることは間違いない。


さて、次は染殿神社だ。
8号線沿いにあって、看板も出ているのでわかりやすいと思う。

この神社にも、とても素敵なエピソードがある。
仁寿2年(852)、摂政藤原良房の姫が訳あってこっちのほうまで
落ち延びてきたそうだ。で、村人たちは経堂を一夜貸したわけだが
その晩、姫は産気づいて娘を出産した。村人たちは仮屋を立てて
食べ物を差し入れるなど、ささやかだが援助をしたおかげで
娘はすくすくと成長していった。
姫はそれにいたく感謝し、京で覚えた裁縫や文字の読み書きなどを教えた。
さらに、村の若い娘向けに近くの山の草を用いた着物の染付けも教え
極めて美しい色を出したことから、村人も大層喜んだという。
やがて、この母子は都に帰ることになり、村人と惜別の涙を流したわけだが
振り返ってみると、あの母子は神様の使いではなかったかってことになり
この神社を建立した。で、あの娘は実は清和天皇の妹である儀子内親王
その母は文徳天皇の后として、地方視察のためにやってきていたわけであった。
従って、ここの祭神は染殿大神という、オリジナルの神様である。

社殿はとても新しいが、この境内にある石碑は極めて古く
俺が確認しただけで正徳年間のものがあった。
ただ、全部梵字や仏像が彫られたもので、神仏習合の真っ最中だったことが窺える。


次は伊豆佐売神社へ。
利府町役場やジャスコから近いが
いかんせん敷地が狭いので、車で来た場合はちょっと注意だな。

この神社は、以前も触れたが式内社であるわけだが
wikipediaによると、宮千代の姥神社も式内社になっていて
どっちかが式内社じゃないはずだ、という話をした。
この神社は、地理的に考えても、当たりなんじゃないかと思っていたのだが
伝説では、この神社のある敷地には、1100年ほど前には九門長者屋敷があったという。
それが本当ならば、延喜式が編纂された時期にはこの神社はまだなかったということになる。
もちろん、他の場所から遷宮してきたのかもしれないし、この伝説が本当とも限らないので
結論を急ぐことはできない。