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日本第一党選挙対策委員会委員長とかいろいろやっています。

これは10.27に放送された

台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)

が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。

なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ

写真ものっけていきます。

(これが4回目です)


司会(鄭弘儀)「はい、では3年目に入りましょう。3年目にはどんなことがあったのでしょう」
         1897年、すなわち明治30年、つまり清朝では光緒23年ですが
         深堀安一郎大尉が率いる15人の調査隊が埔里社から中央山脈に探検
         途中で遭難しました。15名は行方不明になりました。
         その次に、アヘン専売制が実施されました。
         次の5月8日は住民去就決定日です。これは台湾住民の国籍選択猶予の最終日で
         実際に台湾を退去した人は総人口の0.2%にも満たなかったのです。
         私はこれが重要だと思います。彼らは人道を守っていますよね。
         日本人になるか、台湾を出て中国人になるかを選択させたのですから。
         いつまででしょう、2年間です。
         2年間で何が?財産を処分したりする時間がありますね。
         もし国民党がやってきたら、そんなことはできません」


王定宇*1「うん、即没収ですよ。
     ところでその2年間でどうなりましたか?抗日して日本人を殺しましたか?
     退去する時は財産を持っていけます。土地はお金に交換できるでしょう。
     全家族も連れていけます。
     国民党のやり方は、退去させたら全部持っていかれて、小銭しか残らない」


司会「そんな時間もないね」


王定宇「すべてのお金はここに留まって、工場は没収されます。
     日台合併でも没収はありましたよ、没収されたものがどうなったか
     わかりませんけどね。つまり、この2者が人の問題を処理する時は
     差が大きいでしょう」


司会「次は、三段階警備制が実施され、全台湾を危険・不穏・安全の3つのレベルに
    区別されました。私はこの資料を持っていませんでしたが、見つけました。
    安全とはどこでしょう。高雄や台中などの都会とその周辺です。
    そして不穏というのは郊外に近いところで、危険というのは山に近いところです」


陳立宏*2「山の中には原住民がいます。
     彼らは高砂族に手こずっていたんです。当時の高砂族の教育普及率は
     当時の水準より大体高かったのです」


司会「なるほど、では次。玉山の高さを3952mと測量しました。
    富士山を越えたので、明治天皇は玉山を新高山と改称しました。
    よし、これが台湾に来て3年目ですね。科学測量機器などを用いて彼らは
    玉山を3952mと測量しました。
    ところで、私は質問したいんですが、清朝は測量をやりましたか?」


陳立宏「してません。清朝の時は玉山がどこなのかすら知らなかったはずです。
     実は当時既に気圧計はありました。100m上がる毎に温度が0.6℃下がることも
     わかっていました。それで気圧の変化もいくら減るというのはわかっていました」


司会「ええ、それではなぜ清朝の時はやらなかったんですか?」


陳立宏「彼らにはその技術と設備がありませんでした。
     あなたも『馬偕回憶録』を見ればわかりますよ」


王定宇「清朝は台湾の山と草原に興味がありませんでした。彼らは台湾を有効的に
     統治しようとしませんでした。台湾を失う9年前になってから
     ようやく建設を始めました。つまり清朝は、台湾の森、山、川を
     あまり調査しませんでした。これが彼らの地図で丸くなった理由です」


陳立宏「清朝には現代化の概念がありませんでした」


司会「そうそうそう」


陳立宏「だから日清戦争で負けても、それは日本の船と大砲が凄いだけだと
     彼らは考えていたのです。日本が本当に清朝を震撼させたのは日露戦争です。
     それはすなわち、東洋人、黄色人種が白人に勝てる証明だからです。
     それから清朝は留学生をアメリカへ、日本へ派遣しました。
     胡適*3もその時にアメリカに派遣されました
     つまりあなたが知るべきなのは、清朝が本気で現代化に取り組んだのは
     日露戦争以後ということです。
     しかし台湾では既に、日本統治のもとで7,8年に渡り現代化が行われていました」


呉国棟*4「私が少し補足しましょう。あなたがさっき危険地区を言ったのは
     乃木希典が台湾で実施した三段階警備論です。三段階警備論は
     一番危険な地区に軍隊と憲兵、不穏な地区には憲兵と警察、安全な地区は警察のみです」


司会「ほう」


李坤城*5「さっき立宏さんが話されたことに私も一つ補足したいのですが
     弘儀さんはさっきからこう言ってますね、私たちはこんな精神を探していると。
     それはどんな精神でしょう。結局、私たちはそれが明治維新だと気づきました。
     維新の精神です。日本人は台湾を統治するとき、軍人のほかに
     多くの専門家もやってきました。一番有名なのは伊能嘉矩*6ですね。
     李筱峰教授の本にこう書かれています。彼は1895年に台湾にやってきて
     10年に渡って台湾を一周した。原住民の村を隅々まで含めて一周してから
     彼は台湾文化誌を書いたと。彼が書いた本は今でも台湾の民俗学、人類学
     各地の調査報告の入門書です。見てください、10年です。
     10年だけで彼は台湾についての基礎研究を築きました。
     後に私たち台湾の若い学生達は彼らの教育をもとに同じ方向に歩みました」


司会「そうさっき立宏さんが何度も言いましたね、現代化です。
    現代化とは、機械とかだけではないですよ。そう、心です。
    心の中でもなんでしょう、疑問があったら答えを探すことです。
    しかし答えを探すのは難しいでしょう。そのためには正しい方法を
    用いることです。これが大事なんです。日本人は、あの山。高くて
    とても高いですよね。彼らはそれを測量しました。
    彼らは数値を知りたかった。なぜ清朝は測量しなかったのか?
    なぜ日本人は好奇心があるのか?清朝は測量方法を知っていたんでしょうか」


王定宇「彼らは知りたくなかったんです。清朝はこの土地を知りたくなかった」


陳立宏「弘儀さん、これは中国の非常に面白いところですよ。
     もし私たちが中国の本を読んだら、原則、泰山が中原では一番高い山ですよね。
     そうでしょ?私たちは皆そのイメージがあります。
     では、泰山の高さは?数百mですよ。5,600mしかないんです。
     登泰山而小天下(泰山に登れば天下が小さく見える)と彼らはそう信じていた。
     泰山は実は5,600mしかなかったということだけでも中国人のデタラメさがわかります。
     彼らは適当に書いただけです。彼らには精確かつ科学的な態度がありません」


王定宇「さっき1897年のことを言いましたね、これは日本人がやってきて3年目です。
     1897年には玉山を測量しただけでなく、もっと別のことがありました。
     その頃日本はイスパニア(フィリピン)と領土範囲を確定していて
     台湾は日本の領土とみなされていました。
     バス海峡と台湾海峡の領有権を確定しました。その時日本総督は
     菊池という陸軍少佐を派遣して、紅頭嶼すなわち火燒島(現・蘭嶼)の
     垂涙碑あたりを測量しました。それでその陸軍少佐が日本国旗を原住民に渡して
     象徴的に統治し始めるのが1897年11月14日のことです。
     なお、1897年5月には女子学校が開校しました。これも日本が来てから
     3年目のことです」


司会「そうですね、それは後でご紹介するとして次を見てみましょう。
    さっき衛生顧問として招聘されたのは誰でしたっけ?バルトンですね。
    彼らは衛生を重視し、玉山を測量して、そして何をやったっけ。
    軍人15人を派遣して調査したが、最後は行方不明になったと。
    つまりどうでしょう。彼らは台湾を知ってから統治しようとしました」


陳立宏「100年前に彼らがどうやって測量したのかというと
     さっき私が言った方法です。彼らは測量したいから進歩しました。
     それで多分(気圧計か何かで)測量しました。
     それがその頃ヨーロッパで使われていた技術です。
     つまり、そうヨーロッパ化しました」


司会「そうですね、では次をみましょう。
    国語学校、1年目は国語伝習所でしたね。3年目には国語学校になりました。
    現在の台北市立師範学院の前身となる新校舎が竣工されました。
    彼らは3年で何をしたんでしょう、学校ができました。
    次に鳥居竜蔵*7が紅頭嶼に行って人類学の調査を行いました。
    次に、紅頭嶼(現・蘭嶼)が台東庁に治められました。もう蘭嶼に派遣しました。
    台湾に来て3年目で。
    次に、4年目すなわち明治31年、又は光緒24年ですが、児玉源太郎総督と
    後藤新平行政長官が台湾に就任しました。児玉は日本政府の要職と兼任なので
    後藤が実質的に総督府の責任者でした。二人は台湾に深く貢献したので
    李登輝元総統は日本に後藤新平賞を贈りました。
    ちょっと聞きたいのですが、台湾人はこの歴史を知っているでしょうか」


王定宇「ちょっと面白いことを見つけました。
     蘭嶼は清朝が日本に割譲する領土には入っていませんでした。
     それは日本人が発見した島だからです。
     そう、見てください。今なぜそこを国民党が領有しているんですか?
     もし蘭嶼の人がこの番組を見ていたら、彼らは独立すべきなんです。
     あの年に総督府が府令第58号によって紅頭嶼すなわち今の蘭嶼を台東庁
     治めると公布するまで、中国人はあの島の存在すら知りませんでした」


司会「今、蘭嶼にはどれくらいの人が住んでいますか?」


王定宇「1,2万人だけでしょう。少ない」


司会「1,2万人はもう独立できるよ。ナウルの人口は1万人です」


鍾年晃「実はかれこれ20年間、蘭嶼の住民は独立運動をしています。
     しかし私たち台湾本土は彼らに関心を抱きませんでした」


王定宇「蘭嶼の人たちは中国にこう言う資格がありますね。
     私たちの土地が中国の一部?冗談じゃないぞと。
     つまりこういうことです。日本人が来たら山にも海にも行きますね。
     でも清朝は来てもどこにも行かないじゃないですか、国民党もだ。
     国民党は清朝と同じ考えなんです」


陳立宏「もし今日、この番組を見て媚日だという人がいたら、私たちの先祖を見てみましょう。
     そう、私たちは媚日をしていた先祖を見てみましょう。
     これは国民党が出版した『蒋故総統経国先生』です。
     つまりこれは、蒋経国が亡くなって何年もしてから国民党が出版したものです。
     その頃、国民党は私たちのような記者が取材する時にこの本を配りました。
     さて、実は蒋経国蒋介石に命じられて何度も日本に行きました。
     
     そしてあるとき、日本に行く時、彼はこれは知恥之行だと強調しました。
     なぜかというと明治維新で活躍した伊藤博文が、中国人は寝ているので怖くないと
     中国を評価していたからです。つまり、蒋経国はこう言いました。
     私たちは第二次大戦に勝ったが、今なぜ私たちはこんな環境に置かれているのだと。
     私は知恥の気持ちを込めて日本を訪問したと。彼はわかっていました。
     私たちがさきほどから討論していることです。中国国民党戦勝国
     中華民国戦勝国ですが、彼らの貨幣、物価の破綻は敗戦国の日本より
     酷いものでした。しまいには中国大陸まで失ってしまい、台湾に逃げ込みました。
     そんなわけで、彼は日本に行くことを知恥之行と言ったのです」



司会「今、台湾にはもう一人の伊藤博文が必要でしょうね」


呉国棟「そう。私たちはいつも私たちには、そんな台湾を支える人がいないと言っています。」  


司会「もし、台湾に伊藤博文のような人物がいたならば、私はその人が
    台湾にとって重要な功臣になると信じています。台湾に、何だっけ
    予算を倍増させますか?いや、心の革命のほうがいいでしょう」 


陳立宏「本当に一番大切なのは、物質ではなく心の革命です」


司会「ええ。次は1898年です。撫墾署は撤去されました。
    反抗軍首脳の林火旺は礁渓で日本軍に帰順しました。
    それで、第一次土匪帰順式が行われました。昔は抗日する人のことを
    土匪と呼んでいました。三段階警備制が撤廃され、台湾人向けの公学校と
    日本人向けの小学校が開校しました。つまり公学校制度が公布されました。
    一方は台湾人の子どもを入学させて、もう一方には日本人の子どもを入学させました。
    日本人のは小学校、台湾人のは公学校といいました。
    次に、保甲(隣組)制度と壮丁団が成立しました。それは地方の自治体で
    警察に協力させられました。
    その次、台湾日日報が創刊されました。これが日本時代で一番発行部数が多くて
    一番長持ちな新聞社です。つまりこれは日本政府(総督府)の中央日報に相当します」


陳立宏「そう、総督府中央日報です。日日新報」


司会「次に、土地調査業務が始まりました。そして、反抗軍首脳の簡大獅が台北芝山岩で
    帰順しました。匪徒刑罰令が実施され、反攻勢力の積極的な討伐が始められました。
    実は乃木は高圧な方式でやったわけですね」


陳立宏「軍政だからですよ。その間は本当に1,2万人を殺しました」


司会「総督府病院が台北病院に改称されました。これが台湾大学付属病院の前身でもあります。
    ここで私たちがわかるのは、日本人が台湾にやってきてから4年間で何をやったのか
    ということですが、台大病院は大部分設立していますね。
    5年目となる1899年、総督府医学校、すなわち現・台湾大学医学院の前身が開学しました。
    彼らが来たのは1895年です。1899年には総督府医学校が開学しました。
    つまり4年で台大学院が設立され、そこには主に台湾人青年を入学させました。
    台湾人の子どもに何を勉強させます?もう台大医学院に入れますよ。
    次に食塩と樟脳の専売が始まって、台湾銀行が開業しました。
    そして、日本時代の一枚目の紙幣が発行されました。
    次に台北・台中・台南の三箇所の師範学校が開校しました。
    これが台湾での師範教育の始まりです。さらに市区計画についての土地及び
    建築物の関連規定が頒布されました。これが台湾史上初の現代都市計画に関わる
    法律です。台湾に来て4年で何がありました?都市計画の法律ですよ」


王定宇「彼らが4年間でやったことは、今の台北市長、もしあれば台湾省省長より多かったんです。
     見てください。その頃日本は維新をしていました。彼らが台湾に維新を
     与えたとして、何を与えたのですか。まずは教育から、つまり
     師範学校、女子学校、小学校ですよ。次に銀行で、銀行総行が設立されて
     金融制度ができました。それだけでなく、新聞を発行したことは
     皆に漢字を読ませることに役立ちました。
     これはすべて関連しています。漢字が読めるから新聞を読む、プラス宣伝。
     そしてその年で重要なのは、バルトンが衛生環境を改善しようとして
     医者を日本から招きました。それだけでなく、当地の人たちを訓練していました。
     つまり総督府医学校が成立しました。後藤新平は、人材の育成は100年後の
     台湾のためだと考えました。その年の6月に、台北キールン、新竹、台中
     嘉義、台南、鳳山、宜蘭、台東、澎湖合わせて10軒の病院が竣工しました。
     台湾に来てからの4年間で、台湾本島だけでなく澎湖まで含めて10軒の病院が
     設立されました。人の健康の面倒を見たのです。
     さきほど知識の重要さについて触れましたが、清朝時代には腹が痛くなったら
     揉んで気功を込めていました。日本人はその時、腹の中身はどうなっているのか
     勉強させました。漢方医には漢方医の薬学理論がありますが、日本人は
     その中身を知りたがりました。つまり台湾は1898年、つまり日本人が来てから4年間
     インフラ、教育、金融、健康、衛生などの制度が樹立されました。
     もう一つ補足すると、日本人と戦闘していた簡大獅は、日本に帰順した後に
     中国に去りました」


司会「本当に?」


王定宇「ええ、彼は降伏して身の安全が保障されてから中国に行ったのです」


司会「ほう、失礼。坤城さんちょっと待ってください。1899年の出来事を最後まで見ましょう。
    鉄道部が設立されました。私たちはさっき鉄道会社が設立されたと言いましたね。
    2年目で鉄道会社すなわちカンパニーが設立しました。今は鉄道部です。
    これは何でしょう。行政機関です。後藤新平が鉄道部長を兼任して
    長谷川謹介が技師長を担当しました。
    次に、反抗軍の首脳である陳秋菊、黄國鎮、柯鐵、褚來福と林少猫らが帰順しました。
    よし、ここまでが1899年ですね。それだけでも4年間だけですね。
    収束したなぁ、すべて掃討し終わってしまいました。はいどうぞ」


李坤城「1899年は台湾にとって最も重要な学校、総督府医学校と師範学校も開校しました。
     それで、1920年代にたくさんの台湾人エリートを養成しました。
     それら台湾人たちは文化運動を行いました(台湾文化協会)
     ここに一つの資料があります。さっき定宇さんは金融事情について触れました。
     1938年、私たちの台湾銀行はアモイの新聞社に広告を掲載しました。
     
     しっかり見てくださいね、台湾銀行の支店はどこでしょう。
     キールン、新竹を除いて、大陸の上海、福州、アモイ
     そしてアメリカのニューヨーク、イギリスのロンドン、日本の神戸、大阪
     東京、横浜にありました。当時の台湾銀行は世界30ヶ所以上に支店を置きました」


司会「うわぁ、それは今の銀行より大きいですね」


李坤城「そして国際化したのです」


陳立宏「あなたは知っていますか?孫文の革命資金は台湾銀行から借金したものもあります。
     台湾銀行は当初から34の支店があって」


司会「ちょっとまって定宇さん。台湾銀行のことは私たちも紹介しないといけない。
    
    これが日本人が造った台湾銀行です。今でも使われています。
    当時の台湾銀行には30軒余りの支店があって、これは日本人が統治している時です。
    ちょっと休憩してコマーシャル」





  

*1:民進台南市議員

*2:政治記者

*3:近代中国の文学者。『白話文学史』など。

*4:時報週刊編集長

*5:収蔵家

*6:明治時代の民俗学者。台湾原住民の研究を行った。

*7:明治・大正期の人類学・考古学者。最新技術を取り入れた幅広い調査で、総合人類学者といわれた。