白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

今日は、どんよりと曇って、ちょっと泣き出しそうな天気。
それでも気温は上がって、30℃になりました。
雷もなったので、うちの犬が凄く不安そうでした。
でも、ごめんねって心の中で謝りながら、何もしてやれませんでした。


今日は、学校に行って安下会の打ち合わせです。
安下会っていうのは安養寺下窯跡の報告書編集会みたいなものです。
でも、何しろ10年くらい前の調査なので、経験者が不在。
戦力が大幅に下がるのです。今現場に行っても、何も残っていません。
表採は多少できるかもしれませんが、それでも何もわかりません。
安下は台原・小田原窯跡群の窯跡群で、東北一の規模なのです。
というのも、小田原丘陵では良質の粘土もとれるし
川も沼も近い。まさに窯にとっては最適な場所です。
時期的には多賀城〓期の最盛期に位置づけられている。
つまり恵美押勝藤原仲麻呂)の三男(四男という説も)朝狩が
鎮守将軍として多賀城に赴任した時期です。
彼はボンボンなので、貧弱な多賀城が嫌い。そこで自分で瓦工人を
連れてくるわけです。もちろん連れてきたのは瓦工人だけじゃないのですが
朝狩は多賀城の大修築を始める。自分の邸宅みたいなでっかい脇殿とか
いろんなものを作ったり、国分寺も作り始めました。
何でそんなことが言えるのかというと、藤原氏のシンボルマークは唐草文様。
それが瓦に使われる時期が〓期なのです。
修造が行われてまもなく、朝狩は都に帰るわけですが、ただで帰るわけにはいかない。
そこで記念碑を建てる。それが今の多賀城碑です。
まさか日本三古碑の一つになるとは思いもよらなかったことでしょう。
朝狩が都に帰って間もなく、恵美押勝の乱連座して斬刑に処せられます。
悲運の最期だったといえるでしょう。
そんな時代の調査をやるわけですから、自分なりに一生懸命やるつもりです。


今日は履歴書4枚を鬼のように書いてました。
エントリーシートも書かないといけないんですけど
履歴書書いたら夜になってしまって
でも写真の大きさにはこだわりたいからカッターで
大きさ調整していくと逆に小さくなってしまって
でもそういうことは多分見逃してくれるかなと思って。