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敗因:ドイツの過保護 という第二次大戦

本日は忘れもしない、1941(昭和16年)年に大東亜戦争の中で
対米戦が始まった日である。そして同時にマレー半島
帝国陸軍が上陸した日でもある。
実はマレー半島上陸は真珠湾奇襲より一時間早かったのであるが
それが注目されない理由として、すでに英国は戦時体制に入っていたことと
真珠湾の意外な被害に、米国のショックが大きかったという2点が挙げられよう。
英国はドイツと死にものぐるいの戦いを展開していたため
日本が参戦するとチャーチルは「またか」と頭を抱えたであろう。
だが、連合国陣営に米国が加入した段階で、狂喜乱舞したのである。


ところで日独伊三国同盟には、参戦義務はなかった。
「三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス」
これが強いて言えば同盟の核といえるのであるが
1940年に締結された本条約の段階で、既に独ソ戦・英独戦は始まっていたため
帝国政府をしてドイツを援助する義理がなかった。
逆に、ドイツは南京国民党政府にファルケンハウゼン中将を中心とする
軍事顧問団を派遣していたが、対日感情悪化を恐れて撤収させてしまうのである。
さらにドイツは参戦義務もないのにも関わらず、なぜか米国に対して
宣戦を布告し、第一次大戦の前轍を踏むことになるのである。
これには、独ソ戦で行き詰まりを見せていたドイツ側が対米戦で加勢する代わりに
日本にはソ連を極東側から脅かしてほしいという思惑もあったといわれる。



しかし、ドイツの過保護っぷりは何もわが国に対してのみ始まったわけではない。
例えば1941年4月に突如イタリアがギリシャに侵攻した際には
イタリア側が圧倒的戦力を有していたにも関わらず、ギリシャ軍にフルボッコ
された。そこでドイツ軍が介入してようやくギリシャを制圧することができた。
そして、1940年にイタリアがエジプトを攻撃した際も駐留していた英国軍の
反撃に遭い大きな被害を被ってしまう。
ドイツはイタリアの尻拭いをする形で北アフリカにまで戦線を広げざるを得なかった。
すなわち、ドイツは欧州において数多くの傀儡国家や同盟国を得ることができたが
ついに良き盟友と巡り会うことがなかったのである。