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なぜ日米交渉は失敗したのか。暫定協定案の謎

本日は、79年前に帝国陸海軍により

米国真珠湾奇襲、併せて英国マレー半島に上陸し

対米英戦が始まった日である。

当時わが国は、対米交渉のため野村吉三郎と来栖三郎を

全権大使として、交渉に当たらせていたものの

11月30日に対米交渉が決裂し

8日に真珠湾奇襲に発展していった…というのが簡単な定説である。

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交渉に臨む野村吉三郎(左)、コーデル・ハル(中)、来栖三郎(右)

では、この交渉のキーポイントは何だったのであろう。

最大のポイントは「暫定協定案」である。

11月7日、帝国政府は妥協案として米国にこのような提案をすることとした。

「仏領インドシナ以外に進出しない代わりに、米国の対日禁輸措置を解除すること」

この乙案は米国側に傍受・解読され、ルーズベルト大統領にも報告された。

ルーズベルト大統領はこの乙案を見て、以下の二つを記載した。

インドシナだけでなく満洲ソ連、南アジアに軍を派遣しなければ

 対日禁輸措置の一部を解除する。

・米国がドイツと開戦することがあっても、日本はドイツ側に立って

 参戦することをしない。そうすれば、米国は日本を支那に「紹介」する。

これがいわゆる「暫定協定案」といわれている。

国務長官コーデル・ハルは、帝国政府側にこの暫定協定案を手渡すべきか

迷ったが、26日の朝にルーズベルトが突然放棄させ

結果、悪名高い「ハル・ノート」が提示されたのである。

ハルは対日強硬派に見られているが、ハルはホワイトハウスの緊急会議

から帰った後

「プライドが高く、力もある民族に最後通牒を与えてはいけない。

 日本が攻撃してくるのは当然じゃないか」と述べている*1

 しかし一ノ瀬俊也「東条英機」によると、乙案に「援蒋行為を止めさせること」

を陸海軍統帥部が入れたことを米国側が難色を示したため、としている。

Wikipediaでは、ハルがこの「援蒋活動の停止に難色を示した」

とある。確かに、国民政府から強い抗議があったのは事実である。

しかし、「日本との全面対決回避のために暫定案が必要という事実関係を

全く理解できていない」と国民政府駐米大使・胡適を呼び出して警告しており

むしろ支那側を「利己的でヒステリック」と批判していたほどである。

それが突然、放棄させられてしまった。なぜか。

実はこの部分が未だに謎として残っていて、ハルの回顧録にすらも

「矛盾しているのではないか」と突っ込みが入るほどなのである。

対日強硬派のヘンリー・モーゲンソーやソ連のスパイであったハリー・ホワイトの

関与が指摘されてはいるが、推測の域は出ない。

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ルーズベルト政権で有力者だったヘンリー・モーゲンソー財務長官

いずれにせよ、米国は帝国と戦争になることを既に把握しており

マニラにB-17の大部隊を輸送していた。

真珠湾奇襲によって始まった日米戦。

暫定協定案の存在とは何だったのだろうか。これがなぜ突然米国側の硬化

につながったのだろうか。

研究者ごとに推測や検証が全く違い、結論は出ていない。

日米交渉を決裂させた一つの要因が、ここにはありそうだ。