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祖母の死に思う

23日、祖母が死去した。満84歳であった。
アルツハイマー病とパーキンソン病を患い、後年は家族の手を煩わせることもあったが
穏やかな性格であり、施設に入ってからはめっきり寝たきりの生活が続いた。
それから、生命の灯が少しずつ消えていくかのように
自然とこの世を去ったのだ。


祖母は、終戦時14歳。
仙台空襲の時には遠くまで走って逃げたと
何度も話していた。夫婦仲はとても良く、祖父と祖母がケンカしたところを
ほとんど見たことがない。
祖父が15年ほど前、寝たきりになってからも献身的に介護にあたっていたが
その祖父が間もなく死去すると、すっかり老化が進んでしまった。


僕は、祖父母に非常に可愛がってもらったが
今思い返すと、いささか甘やかしすぎだったのでは?と
自分のことながら思ったりする。
小学生の時だったろうか。当時祖父母は泉区の住宅地の造成が始まったあたりに住んでいたのだが
造成が始まったあたりだから、まだあまり住宅が建っておらず
草むらがそこいらにあった。そこで、バッタを獲ったりして遊んだ記憶がある。
それから、風疹にかかったのも祖父母の家に泊まった時で
とてつもなく苦しかった記憶もあるが
その時つらかったのは、体調の悪さよりも顔中にブツブツができたことで
誰にも会えなかったことだ。幼い子供の時分、一人で一日中寝てるというのは
とても寂しいことだったのである。
僕も成長してきて、祖父が亡くなり、祖母も老化が進んできた時である。
常日頃から体のふしぶしの痛みを訴え始め、あちこちの病院に通うようになった。
病院の検査では、決まって「異常なし」または「老化によるもの」。
僕は祖母に「戦争を生き延びたんだから、大丈夫だ!」
と声を掛けると「そうだなぁ」とポツリと言った。その日、痛みを訴えたりすることはなかった。
祖母は左翼思想に染まることなく、むしろ軍歌の本を読んでくれたりしたこともあった。
僕の家庭は、自然と保守思想を育むものだったのかもしれない。
そう考えると、今の僕はやはり、親はもちろん祖父母によって
成り立ったと考えられるであろう。


何はともあれ、最後の見送りはきちんとしてあげたいと思う。