白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

町村信孝前衆院議長逝去、一つの時代終わる

内閣官房長官衆議院議長などを務め、自民党のドンとして
長きにわたり君臨した町村信孝氏が1日午後、脳梗塞のため逝去した。70歳だった。


町村氏は昭和19年10月、静岡県沼津市町村金五自治大臣の次男として生まれた。
東大経済学部を卒業後、通産省に入省。昭和57年に退官し
昭和58年の衆院選に北海道1区から出馬、初当選し、以後10期連続当選を果たした。
平成9年には橋本龍太郎内閣で文部大臣として初入閣。
第2次森喜朗内閣では初代文部科学大臣に就任した。
党人事でも、小泉純一郎政権時代に党総務局長、幹事長代理に就任。
平成16年、党内最大派閥の清和政策研究会会長を務め、町村派として
党内で大きな影響力を持つ「ドン」となった。
平成19年の福田康夫内閣では、首相の女房役である官房長官に就任。
平成24年頃から軽い脳梗塞のため体調を崩すことが多くなり
衆議院議長就任後も、平成25年11月に再び軽い脳梗塞を発症
療養のため、議長職を退任していた。
町村氏は政界で文部畑が長かったこともあり、教育に関しては
一家言持っていたようで、学校制度の改革や青少年の健全育成も積極的に行った。
(一方で、極端ともいえる表現規制のため反対の声も多かった)
また支那や韓国に対しても痛烈に批判し、特に地元選挙区の北海道では
北海道教職員組合(北教組)の「独島は韓国領だと教えましょう」としていること
について「日教組本体も驚くような団体」と強く批判した。


ただし、町村氏は良くも悪くも自民党内の保守本流であり
政界に大きな改革を起こすことはなかったが
堅実な派閥運営で、自身が失脚することはなかった。
そんな町村氏の逝去は、保守本流の一つの時代の終わりといえる。
同氏の残した遺産を、どのように作りかえるのか
それともそのまま次世代に継承するのか、今の安倍政権にかかっている。