白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

これは10.27に放送された
台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)
が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。
なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ
写真ものっけていきます。



司会(鄭弘儀)「私たちは日本の50年間を知らなかったといいました。
    しかし今から見ると、日本は台湾に長くて深い影響を与えています。
    私たちははさっき1945年日本は敗戦したが復興する速度はこんなに速かった
    1945年台湾は中国に渡されて、正直彼らより発展が遅かったと話し合いました。
    今回私たちはその原因を究明したいと思います。
    もし見つけたら、私たちはそれを学習するつもりです」


陳立宏「実は921地震(1999年の台湾大地震)が発生する前に、日本でも阪神大震災が起こったばかり
     でした。阪神大震災による被害は、921地震に劣らぬものだったでしょう。
     しかし阪神大震災はわざと残したものを除いて内実は別としてほとんど復旧しました。
     まさに阪神大震災が発生しなかったかのように感じられました。
     しかし921地震の後始末は済んでいないものがたくさんあります。
     例えば台北市の東星マンションなんかがそうです。
    
     ところで、私たち台湾人はこの写真のことを忘れてはいけません。
     1945年10月24日、写真の中央にいる陳儀は
     アメリカ大使館の人に従って、アメリカの飛行機で台北市松山空港にやってきました。
     それで翌日には接収式を行いました。しかしよく見てください。
     台湾人たちは彼らを歓迎していました。たくさんの台湾人紳士は日本時代の正装である
     燕尾服を着ていますね。燕尾服を着て陳儀を迎えたのです。祖国を迎えた媽媽は
     私たちを管理するといいましたが、結局虐殺という苦しい結末になってしまいました
     未だにそのショックの影響は抜け切れていません」


司会 「私ももう1枚写真を追加したいのですが、これが見えますか?
    
     女子学生が旗をたくさん持っていますよね。国軍を歓迎する列になっているでしょ。
     これが1945年の様子でした。台湾人はそれほど中国軍に期待したわけです」



陳立宏*1「後にそれだけ失望したんですか、私の叔父は張成美といって、彼は70代なので
     当時、いわゆる光復した時、彼は小学4年生だったそうです。
     その時学校側は子どもを台北市の街頭に行かせて
     祖国の軍隊を旗を持って歓迎することになったんです」


李坤城*2「立宏さんはそう言うけれども、実は私たち台湾人にはこの100年来、
     選択肢がなかったんです。日本人は6月の始めから台湾の統治の始まりということで
     始政記念日とよびました。あぁ、大陸の国民党は台湾光復節と呼んでました
     しかし、降伏の前夜まで台湾が連合軍か国民党か共産党かいずれに渡すのか
     公表されていませんでした。つまり陳儀が来てから国民党が台湾を接収することが
     わかったわけです。この2つの政権は台湾を50年以上も統治しました。
     私はここで写真を紹介したいのですが、
    
     これは1938年の世界画報で、ここで日本の立憲50周年記念の記念画が紹介されました
     これは1938年当時ですね、東京の国会です。
     1932年の台湾新民報を見てください、ここで1932年1月1日に中国国民政府の選挙結果を報道
     しました。林森が国民党主席に当選した、と報道していますが
     彼は28日後に辞任しました。
     つまり1月28日、上海銀行界の宋子文蒋介石と汪精衛らの離反により
     造反組は別な政府を樹立して、その日から3月6日までに蒋介石は蒋委員長を呼ばれて
     軍事権を握ったのです。汪精衛も行政院院長になって行政権を握りました。
     よく見てほしいのですが、国民政府は1930年代に大陸でもバラバラになって略奪ばかり
     じゃないですか、この前私たちは討論しましたが、つまり私が言いたいのは
     台湾人には違う政権を台湾を統治することに対して選択する権利がなかったのです
     日本時代に私たちは現代化して進化し続けましたが、退化したということです」


司会「これは日本が台湾を統治する歴史的な年表ですが、今私たちは良し悪しは別として
    その時代にどんなことが起こったか紹介してみましょう。
    西暦1895年すなわち明治28年の3月に日本軍は澎湖を占領しました。
    4月17日には李鴻章が清国を代表して日本側の代表、伊藤博文下関条約を調印
    台湾・澎湖を日本に割譲しました。
    5月に日本の海軍大将・樺山資紀が初代総督として任命されました。
    (大将はたぶん上将のことでしょ?)そう、上将です。
    台湾民主国が成立して、康景スウが総統に就任しました。
    あぁ、それで北白川宮能久親王近衛師団を率いて監寮に上陸したんですね。
    で、3日間のうちにキールンを占領しました。
    6月には日本軍が台北城を陥落させて、康景??は中国に逃亡しました。
    変ですね、どうして負けたら逃げるんでしょう?
    台湾総督府は布政使司衙門(後に公会堂に改築)で始政式を行いました。
    そう、私が言いたいのはここ(明治28年3月)から台湾の運命が変わったということです。
    しかし、その前に台湾はどうだったのか、王清乾先生に感謝したいのですが
    彼は『認識台中』という本を書いていて、非常にいい本でした。
    私は彼が珍蔵した当時の写真を紹介したいと思います。
    多分とても珍しいでしょうね、これは日本統治以前の写真ですから
   
    これを見てください。これは私たち平埔族の土で作る家屋です。
    当時の台湾の家屋はこうだったのではないでしょうか。
    (屋根は茅で覆いましたね)そうですね。
    (それは私が小さい頃住んでましたよ)あなたが?
    まぁ、冬に済めば暖かくて、夏は涼しいのです。子作りが多かったわけですね。
    平埔族の番社というのですが、番社とは一つの村のことです。
    当時の家屋はこんな感じでした。私がなぜ皆さんこれを紹介したかというと
    日本がやってきた50年間で何が変わったのがを検証したいからなんです」


王定宇*3「さっき私たちはこれらのことを討論した時、台湾人にとっては
    日本人、中国人、清国、明鄭は皆、外来政権だとわかりました。
    しかし外来政権を比較するとき、私は冷静な思考で外来政権の行ったことを見るようにします 
    台湾人はどうすれば我々の有利になるか考えますが
    さきほど言いましたが、実は明治維新は台湾を救ったのです。
    日本人は台湾人に制度化と現代化を与えました。
    なぜ日本は敗戦してからすぐ立ち直ったのか、なぜ国民党が台湾にやってきてから
    台湾人は今のように少しずつ頑張れたのか。
    明治維新以降、1895年6月17日の始政式で樺山資紀がやってきてから
    1896年7月26日にバルトン*4を雇って
    彼は高名な衛生エンジニアだったわけですが、日本からやってきた誰かが
    彼を招いたんでしょう。伊藤博文首相は彼と一緒に台湾を視察した時に
    バルトンは上下水道を整備すべきだと進言しました。こうしてバルトンは
    台湾に残って上下水道を建設しました。彼らは占領してもいい(割譲でもいい)
    自分の領地と見なされました。しかもその時、彼らはまだ抗日軍と
    戦っていたのです。彼らは既にバルトンに上下水道を建設させていました。
    それから1899年つまりここにやってきて4年目に、彼らは台湾銀行を設立し
    金融秩序と貨幣体系を確立しました。これが現代化と制度化でして
    1896年から1899年までの短期間で、日本人は台湾にやってきて
    衛生的な下水道と上水道を与えました。そして銀行。一方国民党も1971年
    つまり民国60年までに―その時は十大建設*5はありませんでした。
    十大建設はもともと九大建設といって、どんどん加えていって、最後に原子力発電所
    加えて十大建設となったのです。1971年にアメリカから6500万ドルを借りて
    鉄道の電化をしました。それが1971年でした。一方、日本はやってきた1年で自分の国土だと
    宣言して、制度化と現代化をしました。国民党は(大陸への)反攻を断念してから建設を
    やり始めました。
    それでもう一つ言いたいのは、なぜ日本人の戦後、台湾人が立てないかということで
    私が観察した結論は、日本人は愛国心や民族の意志で団結して
    気持ちだけでも大和魂を樹立したかったということです。
    しかし国民党が台湾にやってきてから、台湾人には台湾魂なんてなかったので
    国民党は対内で台湾人を弾圧しましたから
    自分はどこの誰だろうということがわからなかったのです。
    対中国への反攻のために、資源はほとんど大陸への反攻に用いられて
    心は台湾にありませんでした。私は国民党が今でも心が台湾にあるとは
    思っていません。彼らが台湾人に教育したのは、日本人に対する恨みや
    中国共産党に対する恨みだったのです。彼らは中国の見えない故郷の愛を教育して
    結局台湾の土地、周りの土地、隣の渓流の名前すら知らない状態で
    それで国家の意志というものもなくなっていきました。」


司会「定宇さんはよく言いました。彼は日本は明治維新があったと言いましたが
    私も台湾には台湾維新が必要だと思います。これは台湾を体現して
    実力や精神を体現できる重要なカギになるかもしれない。
    私が言いたいのは、この日治台湾史大事年表を知っている人がどれだけいるのか。
    知っている人はほとんどいませんでした。今、私たちは悪い出来事は削除しないで
    良いことも忘れずに言う。
    さて、こちらも見てください。
    1895年に日本の教育家・伊沢修二は台湾で国語伝習所を設立し、日本語教育が始まりました。
    そして日本軍は新竹城を占領して、8月には総督府が軍政を開始しました。
    そう、私たちはよくわかっているでしょう。蒋介石は軍政・訓政・憲政があります。
    日本人は台湾にやってきて軍政を実行しました。
    私たちは日本軍の軍政を良い軍政とは言えませんが、そうとも言えないわけで
    次は尖筆山の戦いがあって、日本軍は苗栗を陥落させ、八卦山の戦いで彰化を占領しました。
    10月には台湾民主国の大将軍・劉永福はアモイに逃亡しました。
    日本軍は台南を占領して、台湾民主国は滅びました。(また逃げました)
    何で負けたら逃げるんでしょう?
    次に樟脳管制が行われました。11月には樺山資紀が台湾を平定したと報告しました。
    正直、こんな歴史は台湾人には教えないべきなんでしょうか。
    これが台湾にどれだけの影響を与えたのでしょう。
    次に西暦1896年つまり日本がやってきて2年目に胡嘉献、陳秋菊、林李成らが
    部下を率いて台北城を襲撃しました。この時はまだ抗日でした。
    国語伝習所の6名の教師が殺害されて、後に芝山岩事件(六士事件)といわれました。
    それは私たちが討論した、台湾人はまだ抗日でしたよね。
    次に、台湾鉄道株式会社が設立されました。会社は中国語の公司のことです。
    これは重要なことでしょう。このことが台湾にどれだけ深く影響したんでしょう
    この会社を設立したということは、日本人は台湾で鉄道を舗装したいということです。
    鉄道の建設は運輸、経済上の発展、交通などが盛んであることを表しています。
    例えば観光とか産業とかね。
    その次、日本と台湾の間に定期航路が結ばれました。そして六三法が施行されました。
    これは台湾総督の命令が法律と同じ効力を持つことを示しています。
    私が総督なら、私が発した命令は法律となります。
    それじゃ始めから法治はなかったじゃないですか、それが軍政です。
    次にキールン築港調査委員会が設立されました。それで1900年から
    四段階46年に及ぶ築港を行ったわけです。つまり日本の敗戦まで続きました。
    そう、台湾にやってきて2年目からキールン港を建設しようとしました。
    1900年、つまり4年に渡って計画を練って後に建設が始まりました。
    いつまでやったか、四段階です、四段階は46年ですよ。
    日本はこうして台湾を建設したんです。今の台湾人はこのことを知っているんでしょうか。
    たくさんの台湾人はキールン港の利益を享受している時を知っていますかね。
    これがどれだけ台湾に深く影響を与えているのか、私も知りませんでしたが
    あなたはどうですか?」


李坤城「最近私はこれら古い写真を探していた時に、一枚の写真を見てびっくりしました。
     
     例えば今のこれですが、特に今のご老人は古い時代のことをたくさん私に喋ってくれました。
     例えば日本人が台湾やってきた後、市区改正(都市計画)を行いました。
     全部の都市も計画しました。この写真は1920年の現・台北市の衡陽街ですが
     衡陽路はこの時すでに開発されていました。商店街だから、ほかは住宅区で。
     
     三線路は今の中山南路ですが、当時は既にこんなにきれいでした。
     これは大正期で、1920年代だけですね。
     (立法院の前の道路ですね?)そうです。
     つまりこの写真は日本人が台湾にやってきて20年もたっていないうちに
     私たち台湾の台北・台中・嘉義・高雄の都市開発は始まっていたわけです。
     街道、商店街も形成されはじめました」


司会「つまり台湾人の生活はますます良くなっていました。
    次に、地方行政制度を樹立して、台北・台中・台南3つの県と澎湖1つの庁
    後にしばしば変動しますが、その後撫墾署を設立して、「番人」事務を処理しました。
    番人事務とは、原住民たちのことです。
    次に総督府衛生顧問・英国人のバルトンが台湾に到着しました。
    これはさっき定宇さんが言ったことですが、これは非常に重要なことで
    彼らは衛生方面を重視したということです。
    次に乃木希典が三代目総督に就任しました。初代は樺山資紀、三代目は乃木希典
    誰かが欠けていますね、二代目は桂太郎です」


王定宇「私は桂太郎はあまり台湾に重要なことはしなかったと思います。
     バルトンのことで台湾人は知らないのですが、台湾はバルトンがやってくる前
     台湾にやってきた外国の軍隊は戦死した人は少なくて、ほとんど死でした。
     バルトンが上下水道を完成させて、台湾人は人としての尊厳を感じました。
     それに子どもが生まれてもすぐ死んでしまいます。5人の子どものうち
     1人か2人しか生き残りませんでした。しばしばマラリアとか感染症
     大流行しました。さっきのことですが、まだ公表されていない写真があります。
     私は提供してくれた台糖糖試所所長に感謝します。
     
     これは彼が倉庫から私に送ってくれたものです。
     私たちは台湾に砂糖があることを知っています、しかし台糖のサトウキビは
     どこからやってきたんでしょう。オランダ時代に平埔族は台湾原生種の
     サトウキビを植えましたが、それは今の砂糖ではありません。
     今の製糖産業は1896年から日本人がハワイから「玫瑰竹庶」と「來漢納庶」の二種類を
     導入して、日本人が台湾にやってきて1年目からサトウキビの種を導入しました。
     台湾の製糖産業はこうして始まりました。当時、台糖糖試所の所長さんは日本人でした。
     これは総督府糖業試験所と呼んでいました。今の糖試所の所長さんは自転車に乗りますが
     昔は自動車に乗っていたと言っていましたね(笑)。
     
     当時彼らがやってきた時、これは当時のアルバムですが
     秩父宮殿下が行啓した時のアルバムです」


司会「定宇さん、これは橋頭砂糖製造所ですか?」


王定宇「いいえ、これは大林砂糖製造所です。
    この砂糖製造所は日本が台湾にやってきた10数年だけで
    鉄道、路面電車、2つの大きな国旗がありますね。
    日本は砂糖産業を日本に導入しました。私は国民党が台湾に逃げ込んで
    ここから金を盗んだのだと断言します。
    当時の台湾がどれだけ進んでいたのかというと
    
    この汽車を見てください。これはどこまで砂糖を運んでいたのでしょう。
    高雄のハマセイまで運んでいました。
    つまり大林からそこまで(そう、砂糖を運んで)
    当時の鉄道はすでに嘉義から高雄まで舗装されていました。
    この中にもっと当時の写真があります。私は当時もうこんな撮影の技術があるのか
    とびっくりしました」


司会「定宇さんはもう一枚砂糖を運んでいる写真があると言っています」



王定宇「すでに包装しました。皆さんにお見せします。
     これは当時、台湾人がサトウキビを刈っている写真です。
     
     砂糖製造所で日本人のために働いています。
     田んぼを全部平らにして、サトウキビを採っていました。
     ここで悪がきはサトウキビを盗んで奪ったりしていました。
     私も悪がきでしたからね(笑)では台湾の現代化を見てみましょうか。
     
     これは今の工場ではありません、当時の工場です。
     砂糖を酒精に精錬する工場ですね。
     その酒精は当時の五十鈴自動車の燃料になりました。
     いすゞの車が酒精で稼動するのは、台湾の製糖産業で発展しました。
     (ほう、酒精燃料ね)はい。これも精錬の様子です。
     このアルバムはまた機会があったらご紹介しましょう。
     1896年に日本人がサトウキビの苗を導入して、台湾の製糖産業は
     台湾に重要な地位を占めたわけです。
     つまり日本人は台湾を搾取しましたが、利益も返しました」


司会「そうですね。ではさっき、劉永福だの唐景スウだのが敗戦したと言いました。
   それからどうなりましたか?逃げていたといいましたね。
   私は後で乃木希典のことを紹介しましょう。
   なぜ日本が成功したのかということを私たちは見習う必要があります。
   それが精神の二文字でしょう。それは後でご紹介します。まずはコマーシャルです。」



     

*1:資深媒論工作者

*2:時光城堡堡主

*3:民進台南市議員

*4:英国人技師ウィリアム・バードン

*5:台湾の整備計画のことで、国際空港建設・台湾鉄路管理線の建設・線路電気化・台中港の建設・蘇澳港の建設・中山高速道路の建設・造船業の推進・鉄工業の推進・石油化学工業の推進・原子力発電所の建設の十大事業を指す。