白雉日報社公式ブログ

日本第一党選挙対策委員会委員長とかいろいろやっています。


これは10.27に放送された

台湾の人気政論番組「大話新聞」(Talking Show)

が土曜と日曜で放送するスペシャル番組です。

なかなか貴重な資料が出てきますので、文字起こししつつ

写真ものっけていきます。

(これが3回目です)


司会(鄭弘儀)「続いて大話新聞へようこそ。
   さて、日本が着てから2年目のことを討論しましょう。
   乃木希典が第三代の総督に就任後、台南延吉郡の王廟が開山神社に改められました。
   これは台湾で最初の神社です。
   はい、乃木希典について話しましょう、なぜ彼らはあんなに強かったのでしょうか
   精神の二文字です。私がさっきから言っているように台湾人はその精神を見習うべきです。
   これは王清乾先生が書いた本ですが、私が皆さんにご紹介しましょう。
   乃木将軍は1896年に台湾総督に就任、1898年に退任しました。
   つまり台湾を2年ほど担当したわけです。
   当時、乃木の母親はすでに高齢でした。そして台湾は日本に統治されたばかりの
   不毛な地です。つまり彼は母親を台湾に行かせたくありませんでしたが
   母親はそれを知って彼にこう言いました。
   あなたは今回台湾総督という大命をもって、短期間しか滞在しないという
   心構えではいけない。
   これはどういう意味でしょう、観光してすぐ逃げてきてはいけないという意味です」


呉国棟「清朝の役人たちは3年間の任期のところを
     2年で逃げましたからね」


司会「へぇ、彼の母親はこう教えたわけです。短期間で逃げてはいけないと。
    それで乃木は台湾に来ました。結局彼の母親も家族も一緒に来ました。
    彼の母は台湾に到着してすぐ、もし病死でもしたら台湾に埋葬して
    台湾の土になりなさいと語りました。彼は私たち台湾の土に
    日本人が台湾の土になります。
    この本によると、当時乃木の母は69歳の高齢でした。
    結局台湾にやってきて2ヵ月後、彼の母は本当に病気で亡くなりました。
    そして乃木は母の遺言に従って、母を台湾に埋葬しました。
    結局、乃木は台湾に来てから、台湾にいる日本人に命令しました。
    第一、台湾はもらったばかりなので、日本人は台湾島民の風俗を尊重する。
    第二、私費で嘉義の衛生機関に賛助する。彼は自ら出資しましたね。
    第三、風評が悪い水野という行政長官を解任する。
    乃木には二人の息子がいました。一人は乃木勝典、もう一人は乃木保典といって
    日露戦争の時二人同時に出征しました。彼の子どもは皆出征しました。
    同年4月、二人は広島で再会してこの写真を撮りました。
    はい、これが写真です。
    
    こちらが乃木将軍。そしてこちらが二人の息子です。
    
    私は皆さんに言いたいのですが、長男の勝典は一ヵ月後に戦死しました。
    陸軍参謀本部は、乃木の家系を守ろうと、次男の保典を司令部の衛兵長
    異動しました。乃木希典と保典の親子はどうしたか知ってますか?
    彼らは拒否しました。彼らは参謀本部に戦闘が最も激しい旅順に行きたいと
    上書しました。彼らは自ら前線で戦闘したんですよ。
    当時のロシアには新式の機関銃がありました、結局乃木の部隊は壊滅し
    生存者がいませんでした。自ら前線に異動した保典は攻撃前夜、父親と
    弁当を食べて別れました。翌日、乃木保典は戦死しました
    彼は頭を打ちぬかれていました。日露戦争終結した時に
    乃木将軍は宴席には参加せず、一人で靖国神社に参拝しました。
    そこで彼は涙を流したのです。明治天皇の葬儀の日、乃木希典と彼の妻は
    天皇に哀悼の意を示し、そして自分のミスにより死んでしまった
    1万2000の兵士に謝罪するために、古式の切腹で自殺しました。
    当時乃木は64歳、彼の妻は54歳でした。この王さんはまた書いています。
    私たちの中にはある人は子どもに兵役を受けさせないで、総統選挙のときに
    台湾の土にキスをするのに、アメリカで不動産を買うことを考えると
    恥だと思って情けないとね(笑)」


鍾年晃「弘儀さん、あなたはさっき乃木希典の母は台湾に一年住んで
     台湾に埋葬したといいましたね。私は桃園にある二つの遺体*1について
     考えましたよ。台湾に数十年も住んでいたのに、亡くなった時は
     しばらくそこに置いて、どこに埋葬するんですかね、中国に埋葬したいでしょ。
     そして史料はアメリカに送られました。
     つまりこれは心構えの問題でしょう。乃木希典は日本人ですよ。
     あの二体は中国人です。日本人は台湾に来て、彼の母は一年住んで
     よし、私が死んだら台湾に埋葬してくれ、台湾の土になるといいました。
     彼らには落地生根の考えがあるからです。しかし中国からきたあの二体には
     死んで何十年経っても台湾に埋葬されたくない。
     まさかそれほど台湾の土が憎いのですか」



陳立宏「私たちは討論しましたね、日本が始政式を行った会場はここです。
     布政使司です。もともとここは清朝では台湾で最も大きい行政機関でした。
     今、この布政使司は台北市の植物園の中にあります。
     しかし、私たちは考えてみましょう。確か日本人が台湾に来た初期は
     台湾人民部隊は唐景スウや劉永福の逃亡により壊滅しましたが
     各地の義勇軍、つまり人民は自ら包丁や竹槍を持って日本軍と戦いました。
     相手は新型の小銃と大砲ですよ。各地でも抗日運動が起こりました。
     実は日本人も最初は辛かった。最初の10年間で、さきほど話に出た
     芝山岩事件の以外に簡大獅事件とか、林少猫、北埔事件、雲林の
     歸順式場虐殺事件など、多くの抗日に関する事件が起こりました。
     実は台湾人は親日ではなくて、日本人に反発を抱いていました。
     日本人に統治されたくなかったのです。
     最後まで、要するに国民党に接収されるまで、実は台湾人は日本人に
     反感を抱いていました。しかし今になって、なぜ多くの台湾人
     特にご老人の方々が日本好きになるのか、比較してみました。
     彭明敏*2かつてこう言いました。
     比較してから懐かしくなったと」


司会「つまり私が皆さんに言いたいのは、この精神を正直に私たちは見習うべきということです。
    私たちは今は切腹自殺することを勧めたりしませんが、私たちは
    台湾の土の一部となって、台湾のために戦うのです。
    続いて精神について見てみましょう、この人は誰ですか?
    安藤利吉、最後の台湾総督、末代の総督です。
    私は皆さんにこの段落を紹介しましょう。
    当時、アメリカ軍は交接式が終わってから、安藤にアメリカ軍パイロット
    14名を処刑したという罪で、彼と彼の部下を逮捕しようとしたとき
    安藤は部下達は私の命令に従うだけなので、すべては私の責任だと言いました。
    すべての処刑命令も私が下した命令だ。従って、すべての責任は私が負う。
    すなわち、彼は部下全員は無罪だと言いました。結局1946年4月19日
    上海に護送されている時に彼は自害しました。
    私は言いたいのですが、彼らはね、さっきの敗戦した人たちは全員逃げていましたよね。
    彼ら日本人は敗戦して自害しました。さらに部下達には罪がないといった。
    責任は自分が負う。なぜでしょう、それは自分が下した命令だからです。
    私は皆さんに言いたい、特別費*3は誰がやったんですか」



王定宇「余文がやったんです。馬英九ではないですよ、絶対余文です」


呉国棟「安藤利吉には、また大きな功績があります。それは、一部の台湾人有力者が
     台湾を独立させようとしました。自分が自治しようとしましたが安藤に拒否されました。」
     そして安藤は台湾に引き揚げる16万人の台湾軍人に、どれだけのお金が持てるか
     どんな服を着るかを規定しました。
     これは撤退するときの写真です。皆服を脱いで裸になっていますね。
     そして彼は新たな服だけを与えました。こうして全部のものは台湾に留まりました。
     すべて処理し終わった後、彼は戦犯として上海に護送されました。
     これは彼にとって最大の恥辱でした。だから服毒自殺したのです」


司会「そう、私がさっき言ったのは王清乾先生のものです。
    えっ、ある人の息子は兵役さえ行かせなくて隠しましたね。
    兵役から逃せましたね。見てください、昔、国民党の高官達の息子は誰か
    兵役検査を受けましたか?乃木希典は息子が前線で戦死しましたよ。
    参謀本部は次男を守ろうとしましたが、彼は拒否して前線に送った」


王定宇「それは日本の武士道精神ですよ。この中に二つの問題があります。
     一つはアイデンティティ、もう一つは民族性です。
     民族性について先に言いましょう。私は先ほども民族性について
     言いましたが、唐景スウと劉永福と丘逢甲の三人のうち
     誰が日本と戦いましたか?いませんよね。
     高官が初めに逃げて、下級士官が百姓に掠奪しまくる、これが民族性です。
     第二はアイデンティティ。私はもしあなたが台湾にやってきて
     初代、二代目、三代目…13代目になっても故郷のために頑張ると信じます」


司会「そのとおり」


王定宇「しかし今の台湾は、中国人と台湾人のアイデンティティが両立することで
     内部が消耗しています。つまり私たちには日本にいたような英雄がいないのです。
     そしてこれだけでなく、制度化が台湾に助けたのは」


司会「ちょっと話の腰を折るようですがね。
    これはさっき立宏さんが言っていた武士道精神ではないですか?
    正直、どんな精神でもいい。私はその精神を見習うべきだと思います。
    武士道精神じゃなくてもいい、多分イギリス人の精神とも似ています。
    ドイツ人の精神もそうです。なぜ彼らがそんなに強かったのか
    それにはきっと訳があると思います」


王定宇「それは私の故郷があるからです。故郷が誰かに破壊されているとき
     家族が襲撃されたとき、あなたは故郷と家族を守るために戦いますか?」


司会「絶対やります」


王定宇「しかしそれがうちのことじゃなくて、中国のことだと気づいたら
     萎えるでしょ。自分のアイデンティティがあるからこそ愛郷心がある。
     原動力があるんです。もっと前の歴史を見てみましょう。
     私はある物語を言いたいのです。震動力がありますからね。
     これはオランダ時代(1661年)の最後の総督で、彼は揆一といって
     12代目の総督でした。彼が鄭成功に追い払われた後、福建の人は
     揆一に軍艦2隻を出して一緒に鄭成功を攻めようと要請しましたが
     密約では清国に澎湖をあげて、台湾をオランダ領地として承認させることでした。
     つまり清国はオランダに鄭成功を討たせるということです。
     しかしオランダは結局追い出されました。清朝はこれを受け入れました。
     今、中国は台湾は中国の一部だと宣言していますが、私たちは
     たくさんの証拠を見つけました。清朝の時は自ら逃げた鄭成功
     討とうとはせずに、オランダ人に台湾をあげてしまった。
     清朝がオランダに要求したのは、後で台湾と貿易させてほしいだけでした。
     それだけですよ。日本人が明治維新以降に制度化を通じて台湾をどれだけ
     助けたのでしょう。こちらに一覧表があります。
     もちろんこれは国民党がきてから書いた歴史なので日據時期と書いてありますが
     1896年から1906年まで、台湾の財政について書いてあります。
     日本人が台湾に来て1年目(1896年)の歳入は271万円です。
     1年で倍増して、2年目は532万円。3年目は825万円になって
     1906年まで3000万円あたりまで成長しました。つまり日本人は台湾を統治するのに
     金融秩序、道路建設、縦断鉄道、発電所、産業の発展。
     教育、小学校つまり公学校を与えて私たち台湾の財政歳入をどんどん倍増させました。
     そして台湾の穴を埋めるために、日本からの補助金はどんどん減ってきて
     1905年には補助金がいらなくなりました。つまり台湾の経済は自立しました」


司会「ほうほう、そう。私たちは日本が台湾を統治して2年間の出来事を紹介して
    皆さんにその歴史を見てもらいました。なぜ同じように敗戦した
    台湾と日本にはこんなに差が出てきたんでしょう。私は精神が
    非常に重要だと思います。他に何かありますか?維新ですね。
    台湾には絶対、維新が必要です。ではちょっと休憩コマーシャルです」
     

*1:蒋介石蒋経国親子のこと

*2:台湾の国際法学者。民進党から総統選に出馬したこともある。

*3:首長特別費を横領した罪で呂秀蓮副総統、陳唐山国家安全会議秘書、游錫堃総統府秘書長が逮捕起訴された事件。馬英九台北市長と余文台北市秘書も起訴され、余文氏には1年2ヶ月の懲役刑が言い渡された。