白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

司会(鄭弘儀)「はい、続いて1900年、つまりやってきて5年目に何があったのでしょう。
    台湾新聞紙条例が公布されて、新聞・雑誌の出版を統制しました。
    そう、彼らが管制することはあるでしょう。
    次は淡水河の堤防が竣工しました。そして台南から高雄まで鉄道が開通しました。
    ねぇ、鉄道は台湾にやってきて5年で台南から高雄までできましたよ。
    次に漢方医の黄玉階が台北の大稲テイで台北天然足の会を設立して
    纏足*1解放運動の宣伝を始めました。
    纏足解放運動とは、纏足を解放するということですが、私はこれが重要だと思います。
    私は本当に台湾人たちは黄玉階先生に感謝すべきだと思いますよ。
    これは本当に台湾に深く影響しました。今の女性はなぜこんなに元気ですか?
    私はこれが重要だと思います。その前にどうやって纏足するかご覧ください。
    これは王清乾先生の書いた本です。昔はこのように纏足しました。
    
    生まれたばかりの時、足をこのように親指を折って、ここを上に折って
    それで脱臼させて、そして布で包むと。結局こういう靴ができます。
    よし、内容を見てみましょう。なぜ纏足をしないといけなかったのか。
    私が言いたいのは、中国が台湾に何かを与えたとしたら
    悪いことのほうが多いということです。それはなぜかと言うと
    女性は無能であれば、それが徳だからです。
    それなら学校に行く必要がない。家で働くだけでいいわけです。
    第二に、妻や妾がコントロールしやすい。
    第三に、美への追究とセックスのために纏足は一種の…形容できないですね。
    (フェチズムのことかと思われる)」


陳立宏「小さい足を弄られるんです。つまり男が女を把握できることが
     セクシーだと思われていました。つまり女性の美しい動き
     歩いたら可哀想みたいな感じです」


司会「そして男は彼女の小さくて虐めたいとか、つまり皆さんに読み出せますね
    この漢字は「づぇぐ」と読むでしょ。もしくは「すぅぐぅ」とにかく
    踝あたりのことです。蹠骨を強く捻って、舶状骨を脱臼させました。
    そして長さ5メートル、広さ3インチの布で包むわけです。
    次に1日に1、2回それを解いて、金礬粉を塗ってまた包みます。
    解いたらもっと強く包むんです。強く包んで圧縮させるのですね。
    こうして何度も繰り返すうちに、蹠骨あたりは腐り始めて
    完全に腐ります。痛くてたまらないので、苦しいのです。
    治っても全然歩けない。こうした残酷な纏足過程を経て蹠骨の
    先端の小さい部分で平衡を保って緩く歩きました。
    台湾では纏足解放運動が民国前13年、つまり日本人がやってきた1899年から
    民国前3年すなわち1909年までに、おのおの台北、台南、台中の3ヵ所で展開しました。
    1909年4月に日據台湾総督府が、纏足禁止命令が発布しました。この命令は警察が
    保甲を通じて実行しました。ある統計によると、台湾全島ではおよそ50万人が
    纏足から解放されました。50万名あまりの女性はこうしてこんな苦痛を
    受けなくなって、元気になりました。これで外に行けますね。
    そうしないとかわいそうですよ。50万名あたりは何十万戸の世帯を代表できるでしょ。
    台湾はその時それだけの人が住んでいたんでしょうか。200万名あまりだけですよ」


王定宇「200万名あまりということは、100万名は女性がいますよね。
     女性の半数、総数が100万名でほとんど纏足していますね。」


陳立宏「いや、纏足は裕福な家庭しかできないでしょう。
     そうしないと、家事ができないです。纏足をする人がどうやって家事をしますか」


王定宇「全部家庭内のルールですね。お金持ちです。今言っているのは。
     
     これがいわゆる天然足の会の会議の様子です」
     大稲テイで、黄玉階は中央にいる人彼が会員大会を開催して
     あちこちに宣伝しました。こちらには面白い数値がありまして
     この時から1915年までに天然足を勧め始めて、足を解放する運動を。
     1915年に統計を取ったとき、足を解放した人は48万人でした。
     しかしこっちにはもっと面白い数値があって、纏足を解放することは
     健康的で正しいことでしょ?しかしその時、まだ18万人が纏足を続けました。
     今日も台湾に国連に加盟するのは正しいことですが、ある人は束縛されて
     解放できませんでした。見てください。
     1909年いや、1899年から推進し始めて、1915年の統計で大多数の纏足を
     解放しましたが、まだ18万3千人が纏足し続けました。
     まさか本人がこれが健康に良くないと知らないことか、ある思いがあるかです。
     これが中国の過去の変われないものなのです。それで髪の毛も切ります。
     そう、辮子も切りますよ。つまりさっき私は簡大獅のことに触れて
     簡大獅、つまり抗日分子だと。面白いことにこちらに彼が清朝への答弁書があって
     彼は台湾から中国に行きましたね。結局中国に逮捕されました。
     中国は彼を台湾に送って日本人に死刑にさせました。結局彼曰く
     日本人が台湾を占領したとき、君ら役人は逃げてしまって
     まさに私を見捨てたじゃないか、私は立ち向かったのに。
     今中国に戻ってきた、お願いだから日本人に渡さないでここで殺してくれとね。
     結局清朝は、彼が日本人だと言って日本に送りました。
     つまり中国は台湾をどう考えているかわかりますよね」


司会「今冗談じゃない。台湾は君の土地じゃないよということで次を見ましょう。
    つまり見てください。纏足を解放するのは健康のための現代化の一環でした。
    あなたの衛生を重視させます。玉山を測量させます。探検させます。
    次を見ましょう。学校を建てます。次を見ましょう。
    電話交換規則が公布されて、台北・台中・台南3ヵ所に交換所を設置しました。
    つまり私たちは、何と言えばいいんでしょう。交換所があるとはどういうこと?
    電話だけでなく、長途電話(市外電話)があるかもしれない。
    やってきた5年目には電話がありました。次に台北台中市区計画が次々に
    公布されました。日本は八国連合軍(義和団事件)のときに北京に入るために
    台湾からアモイに出兵しましたが、イギリス・フランスに抗議されて撤退しました。
    ええと、私はこの段落のことを知りませんでした(アモイに行って戦っただろう)。
    つまり彼らが北京を占領しているときに私たちはアモイを占領することです。
    台湾がアモイに出兵することがあったんだ」


王定宇「ここで面白いことがあります。かつて清朝はこのような事件を恐れて
     福建不可割譲宣言を発表しました。それが日本人が台湾にやってきて
     3年目のことでした。清朝はこういいました。台湾は君に割譲してもいい
     しかしお願いだから、アモイ、澎湖、福建は俺のものだ、もう割譲したくない。
     お願いだからもう来ないで、と。しかし本当に5年後にアモイに出兵しました」


司会「そうなんですか。
    次に、孫中山孫文)が初めて台湾を訪問しました。彼は台北に指揮所を設置して
    恵州蜂起を企画していました。
    次に環境汚物掃除規則が公布されました。これは重要ですね。はい。
    これは何かと同じことでしたか、多分ゴミとかなど…。
    つまり皆さん、そのとき彼(後藤新平)が何を重視したか。
    台湾の環境、台湾の衛生、台湾の生活です。
    次に三井財閥が出資して台湾製糖株式会社が設立しました。
    これが台湾初となる、新型砂糖製造所です。
    次に、雲林の反抗軍首脳柯鐵が病死しました。林火旺、簡大獅が処刑されました。
    これはさっきあなたが言ったことですよね」


王定宇「多分、また台湾に送られたんでしょう。清朝で逮捕されて台湾に送られたと」


司会「よし、次を見ましょう。
    1901年すなわち台湾にやってきて6年後、台湾日日新報の編集者は淡水で
    台湾文庫を設立しました。これが台湾で初の現代化図書館です。
    その時、図書館の概念が始まりました」


王定宇「1901年にもう図書館がありました、それは公の概念です」


司会「公の概念は別として、私が言いたいのはこれが知識を伝えることで
    それを文庫といいます。
    次に、総督府専売局が発足して、樟脳局、塩売局、製薬所を管理しました。
    次にマッケー医師が死去しました。彼は台湾で布教と医療行為を
    30年間にも渡って継続しました。もし私が教科書の編集者だったら
    この段落はきっと教科書に書き込みます」


王定宇「マッケーの物語は入るべきです(でしょう)マッケーのことを知らないとは」


司会「はい、第一彼の精神は台湾人が見習うべきです。第二に、彼は台湾に対する貢献が
    誰よりも大きかったのです。つまりこの人について私たちは本当に…どれだけの
    人が世話されたのでしょうか。
    次に、農業専門家・新渡戸稲造は『砂糖産業改良意見書』を提出しました。
    総督府はそれに基づいて、数多くの砂糖産業の奨励政策を実施しました。
    その一連の政策は製糖業を速やかに発展させて、日本時代に台湾で最大の
    産業にまでなりました。
    それで台湾製糖会社の橋仔頭砂糖製造所が竣工しました。
    台湾神社、それはどこ?今の圓山ホテルですね。それが台北
    剣潭山の麓に落成しました。台湾を侵攻したことで死去した北白川宮能久親王
    台湾神社の主神となりました。これが台湾にやってきて6年目に起こったことです。
    次に7年目。すなわち1902年に霧峰の林氏一族を中心として檪社が成立しました。
    これは日本時代で初の漢文詩社(サロン)です。
    つまり彼はあなたの文化を消滅させませんでした。あなたに漢文で詩を作らせるとか
    集社、いや結社することもできます。
    次に細菌学者・高木友枝が台湾総督府医学校2代目の校長に就任しました。
    そして台北病院院長や総督府衛生課なども兼任して、防疫対策を担当しました。
    これは重要じゃないですか?」


王定宇「非常に重要です。その年はちょうど黒死病がはやって、台南で3000人あまりが
     死亡しました。つまりそのときは黒死病を撲滅するために
     日本人はかなり工夫しました。
     さっき台糖のことを触れたので、これをちょっとお見せしましょう。
     
     私の周りは専門家ばかりなので、1900年代にこんな写真があるのは
     只者じゃありません。これはライカで撮影したようで台湾の製糖工場です。
     そしてこの写真は坤城さんはこんな近い場所で路面電車を撮影する写真を
     見たことがないそうです。砂糖一袋一袋を上に載せて、高雄港まで運びました。
     一袋一袋で運んでくる、そしてさっき1901年のことを言いましたね。
     1901年に図書館ができたその年、台湾の灌漑システムに大きな影響を与えました。
     1901年に総督府は、公共用水路つまりすべての用水路も登記しないといけない。
     登記するときは、用水路がどこを経由したか、水源は?終点は?受益者は?
     竣工したのはいつ?誰が出資したか?用水路の権利と義務関係はすべて登記しないと
     いけませんでした。登記してから私はたくさんの用水路を読み出して
     これは全部国民党がやったことじゃない。1901年、中華民国がまだ成立していないとき
     1901年から1907年までに、台南虎頭埤、塩水の頭前渓圳、台東の埤南大圳
     台北(王留)、公圳、新店、亀山で水力発電所が竣工しました。
     これはいずれも1901年から1907年までにできた施設(修復含)です。
     1916年までに桃園大圳(着工時点)が、私は桃園に住んでいるとき
     たくさんの用水路、池、魚池(魚の釣れる池)が見えました。
     私はそれが国民党時代にできたものだと信じ込んできました。
     1920年に台南大圳(現・嘉南大圳)、1928年には高雄九曲堂大圳が
     それらの用水路は皆1901年に総督府これを通じて農業灌漑に対して」


司会「100年余りになりましたね」


王定宇「そう、100年余りになりました。1901年から2007年までは106年を経ましたね」
     

呉国棟「私はその年表を見ていて、一つの感想を抱きました。
     それはその時(後藤新平時代)に彼は衛生環境をかなり工夫しました。
     たくさんの法令、施設、そこにたくさん書いていました」



司会「あなたにちょっと見せて、私たちは少し前に戻りましょう。
    まずはここを見ましょう。1903年、台湾にやってきて何年目?(8年目)
    この年は1903年だけで、計13544人がマラリヤに罹って亡くなりました。
    私が皆さんに言いたいのは、見てください。その時の台湾はどんなに酷かったか。
    清朝に統治された時は七転八倒でした。
    そう、衛生を重視しないのでマラリアで死亡、さっきは何でした?
    ペストで死亡。一体何人の人が死んだか見てください。
    1年で13000名余りもの人が亡くなりました。その時は台湾で200万名だけですよ。
    1年でマラリアだけで13000名が亡くなりました。患者数は言ってません。
    それは死亡者だけですよ。一旦コマーシャルです」

*1:昔の中国人は足を紐などできつく結び、血流を止めて成長を止めることで足を小さく見せることが美しいとされた。しかし不健康で日常生活にも支障をきたすことから、清朝末期から西洋化の影響もあって纏足の伝統は廃れ始めた。