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品井沼干拓は水との戦い

今日は松島町にある品井沼干拓資料館を見学してきたので
それについてちょいとばかし書いておこうかな。
実は松島町の職員と友人でして、オススメだそうだから
行ってきた次第。


品井沼とは、現在の志田郡・黒川郡・宮城郡に跨って存在した湿地帯で
周りは山に囲まれ、吉田川と鳴瀬川に挟まれていた沼のことである。
そのため、古来より洪水に悩まされてきた。
そこで、仙台藩伊達綱村公は品井沼の排水を容易とすることで
洪水被害の軽減、開墾事業の促進を促そうと、大越喜右衛門に命じて
潜穴を掘削する事業を元禄6年(1693)7月に着工させた。
仙台藩における災害は、極めて深刻だった。4年前の元禄2年には
暴風雨で大きな被害を受けていたし、その前年にも7月から8月に
かけて大風雨が発生、何らかの対策が求められていた時期でもあった。
多額の巨費を投じて掘削が進んでいた元禄潜穴は、元禄15年(1702)6月に完成した。

これは潜穴の出口にあたる。こういう穴が20数箇所見つかっている。
高さ2.4メートル、幅3.6メートル、長さ2.5キロメートルの潜穴を
2本掘削し、幡谷明神崎(松島町北部)から浦川(現高城川)へ注ぎ
松島湾に至るルートで、全長7.4キロメートルの新たな堀をつくった
のである。当時の工事には、のみなど手作業で行われ、のみが表採されている。
その潜穴は、現在も水が流通していて、完成後何回にも渡って
改修が行われている。
しかし、それでも洪水被害は続いていた。
問題は、品井沼から小川が鳴瀬川流入しているが、ここが増水
すると川が氾濫するということだった。
そこで、品井沼流入する吉田川(松島丘陵北部を西から東へ流れる)
を、鳴瀬川に合流させるようにする計画となった。
1909年(明治42年)当時の鹿島台村村長の鎌田三之助は
新たに干拓の必要性を実感しており、これを県議会に陳情した。
ところが、その総工費が約90万円(当時の県予算は120万円)と
高額であったことから、地元住民は反対派と賛成派に分かれて
対立した。これに頭を抱えた鎌田だったが、ある時皇太子(後の大正天皇)の
東北行幸を知る。これ幸いと鎌田は皇太子に
干拓事業の必要性をとくとくと説明した。
すると皇太子から「事業を行うように」とのお言葉を賜った。
これが引き金となって、トントン拍子に干拓事業は県議会を通過
反対派も沈黙し、事業が行われた。
しかし、技術的な問題も発生した。吉田川と鶴田川は互いが
交差しており、それが川の流れを阻害する要因ともなっていた。
そこで、吉田川の下部に潜穴をつくり、そこに水を注ぎこみ
高城川に合流させるという方法がとられた。
これは「吉田川サイフォン」といわれ、画期的な技術だった。

数々の難工事を経て、完全に工事が終了したのは昭和25年である。
吉田サイフォンのほかに、約5キロメートルに渡る堤防を築き
吉田川と鳴瀬川を並行させ、河口付近(高城川となる)で合流させることで
水流の逆流を防ぐという措置も取られた。
これによって品井沼付近は水田地帯に生まれ変わり
08年に品井沼干拓資料館がオープンした。
管理する松島町の職員は「品井沼は水との戦いの歴史でもある。
大勢の方に知ってもらえれば」と語る。


品井沼干拓資料館は入場無料だが、無人のため
事前に予約が必要。
教育委員会生涯学習班 022-354-5714