白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

衆院選の渦中にあって選挙の歴史を考える

現在、わが国では衆議院選挙の真っ最中である。

実に2週間にも及ぶ長期戦、各陣営死力を尽くして

当選に向けた運動を展開している。

わが日本第一党もまた、桜井誠党首をはじめとして

完全燃焼を超えた戦いぶりを行っている。

古くからの盟友にして同志の一人、堀切笹美氏もまた

毎日全力疾走である。

 

幕末に行われていた選挙制度とは

 

この国政選挙というのは、1890(明治23)年に行われた、第一回衆議院選挙が

わが国の最初の選挙と思われがちである。

確かに、帝国議会設立からといえばそうであるが、選挙制度を導入した政権が

あった。1868(慶応3)年、戊辰戦争幕府軍に所属して転戦していた

榎本武揚らは、江戸を出立し、仙台を経て、北海道は函館に到着した。

そこを守っていた松前藩はあっという間に駆逐され、函館奉行所は榎本艦隊の手に落ちる。

榎本は、西洋の知識に通じており、明治新政府とは別の政権の樹立を目指した。

それが蝦夷共和国であり、その名の通り、共和制による統治を実施した。

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蝦夷共和国の総裁に就任した榎本武揚国立国会図書館HPより)

共和制とは、君主制と違って国家元首は投票で選ばれ、内閣首班もまた選挙によって

選ばれる。西欧留学でこの政治形態を学んだ榎本は、蝦夷共和国の首班である

「総裁」を入札つまり選挙で選出したのである。

入札に参加したのは、高官ら約800人によるもので、住民らによる普通選挙という

形ではなかったが、当時はそもそも普通選挙制自体が珍しかったから

榎本の政権構想は、かなり画期的だったのである。

その結果、榎本武揚は156票を得て総裁に、副総裁には松平太郎が選出された。

松平太郎は、下級旗本の出だったが有能な人物で幕府内では陸軍奉行並に任ぜられ

江戸無血開城に反対して榎本に合流した人物である。

この入札では、新撰組副長の土方歳三も候補者として挙がっており

陸軍奉行の入札では、松平太郎、大鳥圭介に次ぐ8票を得た。

また欧米列国に対する外交でも成果を上げたこともあり、新政府は

榎本が降伏しても死罪にはせず、登用すべしという方針であったという。

第二次大戦後、日本国憲法が施行され、貴族院が廃止されて参議院になり

内務省による官選であった首長が公選となって、選挙戦はいよいよ賑々しくなっていく。

 

既存政党では政治不信払しょくはムリ!

 

つまり、わが国における選挙の歴史というのはまだ130年程度に過ぎず、現状の選挙制度

果たして時代に合っているのかどうかを問いかけたのが武漢ウイルス禍であった。

僕はまだ選挙戦といえば「ドブ板やってナンボ」論者だが

それは未だ有権者が投票行動に際して参考にするデータが「テレビ・新聞」

または「対話」によるものが大部分を占めているからだ。

しかし、ここまでネットが普及し、情報発信手段が多様化していけば

有権者が投票に向かう際に参考にする情報も変わってくるのではないか。

さらに言えば、政治不信を払しょくし、選挙に対する動機付けになるためにも

われわれ新興の政治団体は勝たなければならないと考えている。

「どうせ誰に入れても同じ」ではない。投票の結果が実感できる政治を

日本第一党は必ずや実現する。既存政党のように公約を破り

それを指摘されると「そうでしたっけ?フフフ…」などとふざけた対応をする

既存政党とは一線を画す。

日本人が本当に必要とする政治を、わが党は取り戻すのだ。