白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

広島原爆投下、絶望の中に光明が差したー。

f:id:kick:20210807023235j:plain

いわゆる原爆ドーム。元は広島県産業奨励館だった

 

昭和20年8月6日、広島市に原爆が投下された、人類史上まれにみる悲惨な日である。

マリアナ諸島テニアン島を飛び立ったB-29エノラ・ゲイ」号は

午前8時15分、原子爆弾リトルボーイ」を投下

ピカドン」とも呼ばれるこの原爆は、大きな閃光とともに

広島市上空で大爆発を起こし、周囲を熱線で焼き尽くした。

さらに、その後放射性物質を含んだ「黒い雨」が降り注ぎ

極めて広範囲で被爆者を出すことになった。

実に10万人以上が犠牲となり、その大部分は何の罪もない民間人であった。

広島に収容されていた米軍捕虜も死亡するという、文字通りの無差別爆撃であったのだ。

米軍の暴挙はこれに留まらず、9日には長崎にも原爆を投下し

長崎市に甚大な被害をもたらした。

そして、絶望の淵の中で迎えた終戦。もちろん日本国民はラジオの前で泣きに泣いた。

広島や長崎では、原爆の被害と戦っている最中であったろう。

焦土と化したまちの中で、市民は玉音に触れたのだ。

終戦からわずか一週間ほど前のことである。政府はとっくに降伏に向けて動いていた。

一体何のために原爆を投下しなければいけなかったのだろうか。

何のために、という怒り。または呆然自失、広島の方々は三者三葉の気持ちで

終戦を迎えたのであろう。

 

戦後も天皇陛下への忠節は変わらず

 

だが、絶望の淵にあった広島市民は決して挫けてはいなかった。

昭和21年から復興に向けた整備事業を開始したのである。

広島市は少しずつではあるが、確かに前進を続けた。

昭和22年12月、一大事が起こる。昭和帝の広島御巡幸である。

この時、連合軍最高司令部は、天皇陛下の巡幸により日本国民の陛下への

反応を知ろうとしていた。しかし、既に他の地域では天皇陛下への歓迎が

凄まじく、群衆に向かって米軍の憲兵が威嚇射撃をするほどであった。

これを見て、連合軍は国体護持を既定路線としていくのである。

さて、当の広島では陛下がよく国民をご覧になれるよう、特設の舞台が設置され

広島に御着きになった陛下は舞台から親しく広島市民にご挨拶をされた。

その映像が残っている。非常に有名な映像だ。


www.youtube.com

 

誰が言いだしたわけでもないのに、自然と群衆からは万歳が沸き起こり

陛下は帽子をお降りになってお応え遊ばした。 

この時、陛下は「家が建ったね」と安堵されたご様子であったという。

 

陛下と国民を結ぶ「君臣一如」

 

陛下が国民を思われるのは、まさに君臣一如(君主と臣下は一つの如し)の形と言ってよい。

確か当時の吉田茂首相だったか、憲法担当大臣の金森徳次郎がよく言っていた言葉である。

例えば、昭和20年の空襲により、宮殿が焼失してしまった時

当時の鈴木貫太郎首相がすぐさまお詫びに拝謁した。

陛下はこの報告をお聞きになり

「そうか、燃えたか。これで皆と同じになった」と仰せになった。

できるだけ国民とともに苦難を分かち合いたい…そのお気持ちこそが

国民を奮起させ、復興の原動力となったのである。

 

「国民とともに…」御代替わり後も変わらず

 

陛下の大御心は、御代替わりがあってもお変わりにならない。

平成23年東日本大震災。未来への希望を失った人々に

天皇皇后両陛下が膝をつかれ、被災者を励まされた…

お声を掛けられた被災者は一様に感激し

「俺はもう死んでもいい」と感激の余り涙を流す方もいたほどだ。

僕もたまたまその場にいたのだが、皆泣いていて、皆感激していた。

僕も感動に打ち震えながら「ああ、この国は大丈夫だ」と確信した。

わが国は、原爆も投下された、世界にも類を見ない大災害にも見舞われた。

今や武漢肺炎が猛威を振るっている。

しかし、天皇陛下が国民を気にかけてくださるのを考えれば

何度でも蘇る。それが日本人というものであり、大和魂なのだ。

この心、僕も忘れずにより一層励みたい。

そして大御心に少しでもお応えして参りたい。

 

 

改めて、広島原爆で犠牲になられた方のご冥福をお祈り致しますとともに

未だに後遺症で苦しんでらっしゃる方にお見舞い申し上げます。