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予州男児の戦い、鬼神も泣かす

年末は党務でもってほとんど外出していたので

まったく多忙だった。

初の愛媛入りということで、非常に緊張したのだったが。

僕は仕事だろうとプライベートだろうと、とりあえず初めて

行く場所では、護國神社と一之宮に参拝することに決めている。

松山からさらに移動する合間に参拝したことを書いておこう。

愛媛縣護國神社は県庁所在地の松山市にある。

だから、松山空港着で本当に良かった。

思った以上に愛媛県は広くて、宇和島方面は松山の南部なので

行けないのである。

 

 

護國神社へは空港で借りたレンタカーで行ったのだが

松山市の中心部は路面電車が走っていて、道路の車線で混乱した。

流れについて行けばどうということはないのだが。

そんなこんなで着いた。

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中心部から外れていて閑静なところにある

愛媛縣護國神社に祀られている御霊は大東亜戦争だけで4万8000柱に及ぶ。

最も多いのは支那戦線で1万1000柱以上、次いでフィリピンの7750柱となる。

というのも、愛媛県で編成された部隊は、多くが支那や南方に派遣されており

特に歩兵第22連隊は明治19(1886)年編成後、日清・日露の役

支那事変で奮戦。その後満洲に駐屯していたが南方戦線の悪化により

順次引き抜かれ、連隊主力は沖縄戦で玉砕したという。

 

また歩兵第234連隊は、昭和14(1939)年に編成。長沙作戦や大陸打通作戦など

わが軍の主要な戦闘で活躍した。戦後南京市で復員を待つ間に

故障していた下水管を整備し、さらに増設工事までやったということで

蒋介石は痛く感動し、真っ先に復員船を割り当てたという。

 

また歩兵第122連隊は、昭和15年に編成後対米英戦が開戦するや

ただちに出動し、昭和17年のフィリピンのバターン半島攻略戦に参加した。

昭和18年にはマーシャル諸島に転進、ほとんど障害物のない浅いサンゴ礁

激しい敵艦隊の猛爆撃や物資不足によく耐えながら、終戦まで島を守り抜いた。

 

主な部隊はこんな感じであるが、他にも南洋第6支隊304人が西部ニューギニア

ジャングルでの飢餓に苦しみ、戦後帰国できたのはわずか5人という悲劇の部隊も

ある。誠に東奔西走、鬼神をも泣かしめる敢闘であろう。

昭和20年7月26日には、B-29の延べ123機による松山市への大空襲も行われ

さらに宇和島への空襲も複数回にわたって行われており

実に死者1346人、負傷者1509人という被害を出した。

この無差別爆撃は悪逆非道というほかない。

これらの犠牲を語り継ごうと、同神社では祈念史料室「みゆき」

平成30年に開館した。

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資料館には戦争当時の軍服や手紙などが展示されており、涙なしには見られない

資料が豊富で、パネルなどで細かく部隊の配置や戦没地などが

示されているのがとてもわかりやすい。

仙台の宮城縣護國神社も資料館があるが、どちらかといえば

靖国神社のコンパクトなバージョンである。

(散華された英霊のご遺影はある)

このように郷土の部隊のみを取り上げ、空襲での被害や

シベリア抑留まで紹介しているのは本当に素晴らしい取り組みで

愛媛県の戦争被害を調べようと思ったらここで完結する。

仙台だと、護國神社だけでは足りなくて、戦災復興資料館に行ったり

歴史民俗資料館に行ったりしなければならないだろう。

この「みゆき」、開館してまだ新しいということで、デジタル資料もあるそうだ。

紙媒体は放っておくと経年劣化するし、散逸の恐れもある。

これから戦史資料のデジタル化はどんどん進んでいくだろう。

それでも、英霊への報謝の心は忘れず、常在戦場の気持ちで

事に当たりたいものである。