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古代支那は言葉を大事にしたエピソード

最近、言葉の本来の意味を調べることがままある。

やはり、いろいろな人に情報を伝えるようになってから

語句の意味を正確に伝えなければならないし

何より、全然違う意味で使っているのを後で見つけると

恥ずかしい思いをするのは自分だからだ。

例え意味があっていても、語源を掘り下げていくと

実はもっと別の意味があったなんてことがよくある。

 

鳴かず飛ばず」の本来の成り立ちとは?

 

一つ例をあげるとすれば

鳴かず飛ばず」という言葉がある。

何をしても売れない、できないといった表現として用いられる。

これの出典は司馬遷で有名な『史記』の「楚世家」である。

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春秋時代支那。楚は南方の田舎と見られていた(Wikipediaより)

支那春秋時代、楚国には荘王という君主がいた。

この君主は即位してから3年、政治に関心を示さず

毎日遊んでばかりいた。それを戒める臣下もいたが

荘王は意に介さず、臣下の間にもだらけた雰囲気が漂っていた。

それでは国が亡びると危うんだのが伍挙という臣である。

伍挙は「3年間鳴きもせず、飛びもしない鳥がいます。これは何でしょう」

と荘王に言った。これは風諫といい、直接「なりませぬ」というのではなく

何かと例えることで、君主を刺激せずに戒める方法である。

荘王は「諫める者は死刑に処す」とまで言い放ったから

伍挙は戒めるのではなく、別の話題を挙げて行間から本意を読み取って

もらおうとしたのである。

果たして荘王は「鳥が鳴けば皆驚き、天高く飛ぶであろう。そなたの言いたいことはわかっている」と言い

突然これまでのだらけた雰囲気をがらりと変え、忠臣には役職を与え

怠惰な臣は厳しく罰した。荘王は即位してから信頼できる臣下がおらず

3年間暗愚な君主を演じることで

本当に国を思う忠臣と、奸臣を見極めていたのである。

荘王は有能な臣を率いて善政を敷き、もう一つの大国である晋を破り

「春秋の五覇」の一人に数えられた。

即ち、「鳴かず飛ばず」とは本来の意味を考えれば

これから大成する人物のことを指すのである。

 

王の名誉を守った群臣たち

 

荘王といえば、あまり知られていない後継の王であるが

息子は共王という。共王は即位後、魯を討つなどしたが

晋が鄭を討とうとしたために、鄭が楚に援軍を依頼し

共王は王族を率いて援軍に出た。両軍は鄭の鄢陵で衝突し

大混戦となった。この戦いで、共王は目を射られ負傷してしまう。

しかも、中軍の将である子反が陣中で泥酔し、共王の御前に出ることが

できないという失態を演じたために、楚は戦意を失って撤退した。

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君主の業績が鼎の裏側に刻まれることも(04年陝西歴史博物館にて撮影)

 

共王は間もなく失意のうちに病死するのだが

その際「先君の偉業を損ね、軍を失った罪は重い。わしの諡は霊か厲にせよ」

と遺言した。

困ったのは遺った臣下たちである。霊か厲は君主の諡としては最悪で

国を亡ぼすほどの暗愚な君主であると言っているようなものだからだ。

しかし、共王が敗北したのは子反の失態が大きく、子反も処罰されている。

遺言とはいえ、さほど過失がない君主を貶めて良いのであろうか。

そんななか

令尹(今で言う首相)の公子貞がおもむろにこう言った。

「諡は『共』にせよとご遺言でしたな」

臣下たちは大変驚いた。理由を尋ねる群臣に向かい、公子貞は

「亡き王は栄光を掴んでいながら、最期まで謙虚であった。まさに『恭』である」

なるほどと合点がいった群臣らは、諡を同じ意味の「共」とし

共王は荘王とともに栄光ある祖先の仲間入りを果たした。

鄢陵で楚に大勝した晋公は、その後増長して群臣を排除しようと

したが、逆に殺害されて「厲公」とされたのは皮肉といえる。

支那春秋戦国時代ほど、言葉というものを大事にした文明を僕は知らない。

調べれば調べるほど驚かされ、感動し、もっと知りたくなる。

この素晴らしい文明が内戦や異民族によって蹂躙され

共産化の嵐の中で忘却されていったのは実に悲しいことだ。

その素晴らしい教えを引き継いだのがわが国であり

支那人はわが国の古典で孔子を教えていることに驚くことも多いという。

良いと思ったことを取り入れ、自国なりにアレンジして活用する。

これがわが国の流儀であり、それに鍛えられた国民がわが国を先進国に

押し上げた。支那でも、中共を叩き潰して、昔の素晴らしい文明国に

戻ってくれれば、これほど痛快なことはないのだが、手遅れであろうか。