陸軍の「三長官会議」とは?
たまたま、映画「日本のいちばん長い日」を見ていて気になったところがあった。
「阿南大将を入閣させていただきたい」と要請するシーンがあるのだが
杉山大臣は、「すぐに陸軍三長官会議を開きます」と応じてすぐに
阿南大将の入閣条件を話し合う。そこで僕はおや?となった。
陸軍三長官会議で陸相って決まるんだっけか?と思ったのである。
陸軍を代表した三つのトップ
この「陸軍三長官」とは
教育のトップである教育総監(当時は畑俊六元帥)
である。なぜこの三長官会議が必要なのかといえば
「現役武官制」を敷いていた。これにより、予備役の将官よりも
現役でいたほうが陸軍に対して影響力を保持したまま大臣になれるわけで
陸軍内部の統率こそが陸軍大臣に期待された役割であった。
ところが、現役の将官であれば、その人事権は依然として陸軍が持っている。
そのため、陸軍が「大臣を出さぬ」と言えば、その内閣は組閣すらできずに
流産してしまうのである。
ここで出る「陸軍」というのは陸軍組織そのものを指すが
それを代表しているのがこの三長官なのである。
事実、1940年には海軍出身の米内光政内閣に三長官会議は
陸軍から大臣を出すことを拒否し、内閣を総辞職に追い込んだ。
三長官に手を焼いた東条英機
とはいえ、陸軍はもともと一枚岩というわけでもなく
対立することはザラであった。参謀総長は作戦を担当するのに対して
陸軍大臣は内閣の一員として国家全体を見る必要があったから
政治家としての側面が大きかったためだ。
そのため、予算配分や作戦の遂行を巡って陸軍内でも対立が起こることがあった。
「実質独裁者だ」という指摘があるが、陸軍内の軍令・軍政の統一化を図ったためで
それが成るとすぐに交代している。
k東条首相は、実は大きな自身の派閥を持たなかった。それゆえに
近衛内閣の陸軍大臣の時から、海軍との折衝はもちろん、同じ陸軍内でも
開戦について、かなりせっつかれたのである。
当時から、杉山元帥をはじめ佐藤賢了軍務課長からも「器が狭い」と批判されたりしている。
これらの批判を抑えるためには、自分が陸軍のポストを独占するほか
なかったわけである。
以上のことからわかるように、陸軍という組織は実にしがらみだらけで
しかも青年将校が力を持った昭和初期から中期には、彼らの暗殺の影も
警戒しなければいけなかった。
その反省に立って、戦後のわが国は自衛隊の指揮は文民統制が原則になっている。
ところで元自衛官といった場合はどうなのだろうか。
元自衛官は防衛大臣になれないといった制約でもあるのだろうか。
寡聞にして聞いたことがないのではあるが。