女川湾戦没者への慰霊を実現
女川防備隊の存在と戦いを知った記事を書いた。
先日、やっとこさ女川町に行き
慰霊を行うことができた。
女川町は、宮城県東部沿岸、石巻市に三方を囲まれるように存在しており
女川港は大規模な港というわけではないものの
太平洋に抜ける利便性の高さと、リアス式海岸ならではの
入り組んだ地形から、国内輸送の拠点の一つとして活用され
大戦末期には、敵艦載機の空襲や潜水艦の襲撃が相次いでいたから
昭和18年、横須賀鎮守府隷下に、標的艦「大浜」や海防艦「天草」を基幹とする
複数の駆潜艇や掃海艇などからなる「女川防備隊」が設置された。
大浜は巡洋艦と書いているところもあるが
大浜の名前の由来が「大浜崎」からとられていること
基準排水量が2670トンであること(通常、軽巡洋艦でも5000トンは下らない)
からも、標的艦または特務艦と表現するべきであろう。
女川防備隊は、小規模ながらも対空・対潜兵装を整えた部隊で
対潜哨戒任務では、敵潜水艦数隻を撃沈し、横須賀鎮守府司令長官から
感状を受けたこともあったという。
しかし昭和20年8月10日、英国艦載機による大規模な空襲を受け
各船とも対空戦により数機を撃墜したものの、女川防備隊はほぼ壊滅した。
死者は飯田寛吉海軍主計少佐をはじめ157人。
女川湾を望む高台にある女川湾戦没者慰霊塔。
僕がこのタイミングで行ったのは、実はこの慰霊塔
リアスブルーラインという海沿いの大きい道路に面しており
駐車場などはなく、少々歩いたところの公園に車を置いて歩いてくるしか
ないからである。今のタイミングなら、旅行などで通る人も少なかろうと
見込んだのであったが、実際行ってみると復興事業のトラックがひっきりなしに
通行していて、とても危ない。慰霊塔の前に止めるスペースもないから
非常に難儀した。
とはいえ、慰霊塔周辺はちょっとした広場になっていて、いつも慰霊祭が
行われるが、うってつけの場所である。交通アクセスは悪いが。
さて、この「女川湾戦没者慰霊塔」は揮毫が保科善四郎中将で
彼は宮城県出身だったし、戦後は政治家としても成功していたから
揮毫が残っているのであろう。
慰霊塔から女川湾を望むと、非常に恵まれた地形であることがわかる。
右奥が女川町の市街地で、左側は太平洋に抜ける水道となっている。
幅は広く、ある程度の大きさの艦船でも停泊は可能である。
周囲は険しい山に囲まれており、ここに複数の高射砲陣地を置けば
天然の要害と化したであろう。
この慰霊塔には線香を置く台もあって、ちょうど線香を持ってきていたので
煙に乗せて、ご冥福をお祈りした。
ここは鷲神公園といって、先ほどの慰霊塔の向かい側に当たる。
とても広く整備されていて、20~30台は止められる駐車場もある。
写真のように、ここにも慰霊塔があるが、こちらは女川町出身の将兵およそ500人
の御霊を供養せんがため。
日清、日露、支那事変、大東亜戦争全ての御霊をお祀りしているため
それほど多くの人数になったのであろう。
こちらは8月10日空襲に参加したグレー大尉の供養碑である。
もともとは高台の公園にあったが、東日本大震災により公園が使用不能になったため
女川町地域医療センターの敷地内にある。
グレー大尉は、カナダ人ではあるがカナダは英連邦であるので
英国軍として出撃した。そこで我が軍の対空機銃を受け
あえなく乗機が撃墜され、戦死した。
グレー大尉は今次大戦における最後のカナダ人戦死者であり、本国から
死後叙勲もされている。
女川町だけでも、3か所の慰霊の場があった。これは事前に調べていったのだが
いろいろな抗議活動や街宣活動も良いが、まずは地元の戦史を知り
慰霊の心を持って方々の戦跡を見て回ってはどうだろうか。
そうしていけば、英霊の御霊への尊崇の念は強まり
郷土の歴史を知ることができる。
愛郷心は愛国心につながる。その上で、戦跡を回るのはとても有意義なはずだ。
グーグルストリートビューなどでも見ることはできる。
しかし、実際に現地に行くことで感じる雰囲気、風、寒暖など
リアルな体験こそが大事である。
ぜひ今後も、戦跡を巡ってはそこで亡くなった方々へ手を合わせたい。