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神道と仏教は一緒なのか?

先日、会社の人から

「友だちとお寺に御朱印をもらいに行ったら

 『経文は持ってきましたか』と言われた」という。

さもありなんである。そもそも御朱印というのは

仏教寺院において、経文を納めた証として始まったのが

最初だからである。それを神道が真似して始めたため

パワースポットブームと相まって、現在では御朱印集めを

趣味としている人も多いようだ。

僕の場合、寺院の御朱印はできる限り受けないようにしている。

お寺の御朱印が嫌だというわけではなく、キリがないからである。

その代わりといってはなんだが、神社の御朱印を頂いている。

もちろん、参拝をしてからである。

勘違いしないでほしいのは、御朱印というのはスタンプラリーではない。

従って、「この神社にお参り致しました」という証で頂くのが正当である。

最近、御朱印を集める人が神職の方に文句をつけるなどしてトラブルになる

ケースが頻発しているが、そもそも御朱印は印刷するものではない。

参拝者がお願いして、神職の方に手書きで書いていただくわけで

時間がかかるのは当然である。その間、お守りを見ていたり

境内の景色を眺めるなどして待つのが当たり前である。

ぜひ、気を付けていただきたい。

 

古代に始まった「神仏習合

 

ところで、神道が仏教の真似事をして良いのか、という疑問もあろう。

結論から言えば、仏教はわからないが神道的には問題ない。

そもそも神道と仏教は江戸時代まで「神仏習合」といい同一視された部分もあった。

古代から仏教は広まっていたためである。

それは聖武天皇国分寺建立の詔を発布したことからもわかろう。

日本書紀』によると、用明天皇(在位585~587)を

天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」とあり、古代でもかなり昔から

仏教は尊ばれた。

また、徳川家康諡号である「東照大権現」もまた神道と仏教の習合である。

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笹谷峠にある仙人大権現の石碑。山岳信仰に深く根付いている

「大権現」というのは、仏が仮の姿で地上に表れたことをいう。

神道大辞典』によると「この権現の思想、また本地垂迹説により

奈良時代より菩薩の称号を諸神に適用することが行われた」とあり

承平7年(937)に、宇佐八幡宮に菩薩号を付したのが初という。

その後、長らくこの習合は受容されてきたが

明治元年廃仏毀釈により、このような神号は禁止された。

大東亜戦後、制度上国家神道が廃止されると、再び神仏習合

復活してきている。このように、神道と仏教はそもそも一緒になった期間が

多かったのだから、双方は親和性が高いのである。

現在でも残っている仏教の名残を探してみるのも、神社めぐりの醍醐味といえる。

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大崎市古川の八坂神社境内にある鐘楼。神仏習合の名残である