知らなかった「女川防備隊」の悲劇
平成31年の年が明けた。
平成最後の三が日を迎え、感慨もひとしおである。
そういえばと護國神社奉賛会の会員更新もしなければと思ったため
日本第一党宮城県本部の斎藤さんと一緒に護國神社に初詣に行ってきた。
現地で待ち合わせをしたのだが、少々早めに着いてしまったため
先に更新手続きだけやってしまおうと、社務所に行ったところ
資料館の応接室に通された。
護國神社には資料館も併設されており、地元の戦史についても詳しく展示されている。
手続きを待つ間、その中の展示の一つに僕の視点は釘付けになった。
女川町といえば、石巻市に北と西と南の三方を囲まれた形で存在しており
豊富な三陸の海の幸が広く知られているまちである。
その女川町にある女川湾は、水深が深く大型船の寄港が可能であるほか
北海道から大日本帝国海軍の拠点・横須賀の中間に位置しているため
交通の要衝でもあったことから、軍港としても整備が進められた。
そんな中、女川防備隊は昭和18年頃に新編され、横須賀鎮守府の隷下に置かれた。
所属した艦船は不明だが、海防艦択捉型の「天草」をはじめ、標的艦「大浜」
その他複数の駆潜艇などの軍艦や輸送艦などが配置された。その数はおよそ20隻という*1
昭和20年6月、英国機動部隊による女川湾への空襲が行われ、天草はF4Uコルセアによるロケット弾により
大破着底したほか、合計7隻が撃沈破され、実に150人もの人名が奪われた。
大戦最後に戦死のカナダ軍人、慰霊碑も建立
実はこの時、対空射撃によりロバート・グレイ大尉が搭乗する戦闘機を撃墜。
グレイ大尉はあえなく戦死したわけだが、第二次大戦で最後に戦死したカナダ人とされている。
女川町では、戦没者の慰霊碑を建立しているが、グレイ大尉の慰霊碑も併せて建立しており
死者に敵も味方もないという考えから、慰霊を行っているという。
新年早々、勉強不足を痛感
恥ずかしながら、僕は石巻あたりに軍港があったというのは何となく想像はしていたが
この話を知らなかった。東北地方での海軍の拠点といえば、青森の大湊警備府があり
航空隊まで組織されていたから、大規模な拠点は他にないだろうと思っていた。
実際、女川防備隊はさほど強力な戦力を保持していたわけではないが
最低限の防備は整っていたようである。
やはり、知らないことだらけだ。英霊から「勉強が足りん」と叱声が聞こえるようで
新年早々、恐縮の限りである。
何はともあれ、本年も何卒変わらぬお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。