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ナショナリズムと氏姓制度

最近、やたらニュースになる支那だが

もともと、支那というのはナショナリズムになじみがある国家ではない。

ナショナリズムが台頭したのは、辛亥革命または共産国家になってからではなかったか。

それまでは、支那で重視されていたのは一族であった。

これは民族性というもので、例えば孔子の子孫が村を作ったり

客家といった小さいコミュニティーから窺い知ることができる。

これは長い歴史がそうさせたのである。

例えば、商王朝は子姓であり、それを滅ぼした周王朝は姫姓である。

本来君主を倒すのは大逆であるが、「天命によって姓が易わる」ということで

易姓革命」として正当化された。

 

わが国では朝廷が権威を与える

 

翻ってわが国は、少々違う歴史をたどった。

皇室と臣下は別の扱いを受けており、天皇により臣下が権力を担保されたのである。

わが国では姓といえば源平藤橘が代表だが、それぞれの姓にはそれをまとめる存在がいる。

それが「氏長者」という。例えば近衛家藤原氏の中でも絶大な権力を誇ったため

「藤長者」といって藤原氏のトップに君臨することも多かった。

近衛家は、摂関家の一つであるから、近衛家の当主は関白まで進んだのである。

一方、源氏は代々武士の家系であり、源頼朝征夷大将軍に任じられてから

武家の棟梁といえば源氏を指した。

後に、徳川家康は姓を藤原氏を称していたにも関わらず、権力を握るや

源氏に戻したのは、征夷大将軍に任じられるためという説もある。

豊臣秀吉が関白に就任したのは、一応藤原氏であるという体を整えるため

関白・近衛前久の猶子となってからである。このように、わが国においては

支那と同様、ナショナリズムの勃興というものとは別の形で、朝廷の権威が

守られていた。それは時の権力者と利害が一致した面もあろう。

何はともあれ、わが国において誰であろうと、権威を持つためには

朝廷に接近する必要があった。

律令制摂関政治武家政権織豊政権ー江戸時代

すべてにおいて朝廷のスキームの中で誕生していることなのである。

わが国の制度史というのは、このあたりが非常におもしろい。