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そもそも「東宮」とは?

恐れ多くも、23日は東宮殿下のお誕生日であらせられる。
本年で56歳をお迎え遊ばし給い、親しく国民にお言葉をお掛けになった。
その中で、昨年を先の大戦終戦70周年を迎え
御心をお痛め遊ばし、自然災害の犠牲者の冥福をお祈りになった。
「被災者お一人一人の悲しみやご苦労に思いを寄せ、厳しい環境の下で暮らす被災者の健康とお幸せを祈りながら
被災地の復興に永く心を寄せていきたいと思っております」
と本年で5年を迎える東日本大震災の被災者にも御心をお寄せ遊ばした。
臣民の一人として、東宮殿下のお誕生を寿ぎ奉るとともに
改めて皇室に忠誠をお誓い申し上げ奉る次第。


さて、東宮殿下は正式には皇太子殿下であるが
宮内庁においては、東宮職が周囲のお世話に当たる。
その長官は東宮大夫である。
なぜ、東宮とお呼び申すのであろうか。
宮城から見て、御所が東側にあるためである。
なぜ東側にあるのかといえば、『令集解』によれば
「四時の気、東より発す」とあり、「即ち春これに准ずるなり」としているから
春宮(はるのみや)ともお呼びするのである。
『職原抄述懐』によれば、東宮を御座所、春宮を官舎としており
元々は別の意味であったことがうかがえる。
また、『大鏡』『栄華物語』にあるように、皇太子殿下の役所を春宮坊東宮坊と
称したことから、皇太子殿下そのものを「坊」と言うようになったそうである。
わが国古来の呼び方として、「日嗣の皇子」とお呼びするわけであるが
天皇陛下を「天津日嗣(あまつのひつぎ)」と称したことに由来する。
もともと皇太子という呼び方自体がシナからの影響を受けたものであって
皇帝の嗣子を皇太子と称したのである。
または、「儲君(ちょくん・もうけのきみ)」ともいい、『漢書』『後漢書』が初出である。
これは南北朝時代によく使われ、まず儲君の宣下があって、立太子が行われた。
東宮御所の役職は現在では東宮職が取り仕切っているが
江戸時代以前までは、東宮傅東宮殿下の補佐を行い、三公(内大臣、右大臣、左大臣)に上る者が
兼務する習わしであった。朝廷がもう一つあったようなもので
蔵人所東宮御所の殿上人も選抜された。


わが国においては、皇室は直接お呼び申すのは僭越であるという理由から
天皇陛下を「ミカド」「お上」「主上」と申したりする。
ミカドはその名のとおり、御門のことである。
また宮城のことを「内裏」「禁中」と申したりもするが「禁中」とはシナ由来であり
「門戸禁有り」として、格段のお役目でなければ入ることは罷りならぬので
「禁中」としていたのである。
「内裏」の出所はよくわかっていない。
これに大をつけて「大内裏」と申す。また、「大内山」とも称し、山城国葛城に大内山がある。


以上のように、現在の皇室には古くからの職制の名残がまだあるのであるが
シナからの影響が非常に大きいのであって、それをわが国では
訓読みにしたり、官制に合わせたりして、改変していったのである。