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水戸藩と仙台藩は親密だった?

茨城県大洗町にある、大洗町幕末と明治の博物館が
昭和4年(1929)の開館から85周年を迎えている。
同博物館は、宮内大臣を務め、明治天皇の信任も厚かった
田中光顕伯爵により創立したもの。
尊王攘夷を旗印とする水戸学に影響を受けた田中伯は
「維新の元勲が顕彰されているのに、水戸藩は努力が報われていないのは気の毒だ」
として、常陽明治記念館を設立。幕末の烈士の顕彰に
情熱を燃やした。
博物館には、自らの収蔵品を寄贈。皇族の身の回り品や
西郷隆盛木戸孝允山岡鉄舟などそうそうたる志士たちの
書や手紙が残されている。


「梅は春の魁、水戸は天下の魁」とは
幕末の水戸藩主、徳川斉昭の言葉である。
水戸藩の自信の表れともとれる
言葉だが、うまいことをいったものだ。
水戸藩といえば、その基礎を築いたのは水戸光圀である。
今や水戸光圀が「水戸黄門」のように日本全国を旅したわけではない
というのが一般的に知られているとはいっても
多くの大名と親交があったのは事実のようだ。
話はそれるが、「水戸黄門」の「黄門」というのは
中納言の通称である。徳川御三家は慣例により
中、大納言まで進むことになっていた。
中納言支那において門を黄色く染めていたことから
黄門とつけていたのだという。


そんな水戸黄門は、実は仙台藩とも交流があった。
当時の仙台藩主、伊達綱村に対して
多賀城政庁に「多賀城碑」があることを知らせ
それを保護するよう助言したことも有名である。
多賀城碑は、恵美押勝の子・藤原朝狩が陸奥鎮守将軍
として赴任してきた際に、多賀城を修造し
それを記念して建立されたもの。
今では「日本三古碑」の一つとして知られている。
水戸光圀の助言がなければ、保護されなかったかもしれないと
思えば、改めて仙台と水戸の関係は重要であったと考えられる。