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大人になって良さがわかる「椰子の実」

昔は意味がわからず、大人になってから良さがわかる
というものはないだろうか。
俺はこの歳になって、発見がたくさんあって
むしろ今までの価値観が日々変化しているという
何ともボンヤリとした人生を歩んでいるのだが
例えば、歌なんかはその典型的なものではないだろうか。
かの有名な島崎藤村が作詞した「椰子の実」これも有名な歌で
「日本の歌100選」にも選出されている名曲だが
俺は最近、これを聞いて
「何と我々の心情を凄まじく表現してくれたのだろう!」と
感動というより、むしろ驚愕してしまったのだ。

歌詞は以下のとおり。


名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ



実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん


http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yashinomi.htmより)


この歌は藤村が柳田国男から聞いた話しを基につくったもので
「この椰子の実が遠くから流れてきたように、私もまた旅の途中である。
 この椰子の実を見ていると、ふるさとが懐かしく思えてくるものよ」
というふるさとを懐かしむ歌である。
かなめも』内では、「旅を楽しむ歌で、人生もまた旅である」との
見方を示していて、確かにそうであろうと思う。
なぜなら、この椰子の実を見て涙した人は、恐らくこの後ふるさとには
帰らなかった。さらにまた、旅を続けただろう。
「八重の汐々 いずれの日にか国に帰らん」という詞があるように
(いくつも重なる波のように)まだ道のりは遠い。しかしいつかは帰ろう
そんなようにも解釈できるからだ。
元来、日本人は旅好きでもある。街道や宿場町が整備されていったのは
そのせいでもあるし、旅行に出かける日本人が多いのもまた国民性だ。
しかしどうだね。これほどまで見事に海岸に流れ着いた椰子の実を描いている。
これは子どもの頃、「それで?」程度の認識だったろう。
だが、この歌詞の風景や、どう解釈するかで
我々の脳裏には、いくつものストーリーが見事に描かれるではないか。
この歌はまったく、奇跡としかいいようがない藤村の才能が発揮されているのだ。