白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

今日は晴れ。やや冷える。
いかんいかん、今日は眠くて運転がかなり危険だった。


そういえば、Nスペで「証言で綴るダッカ事件」をやっていた。
ダッカ事件とは、1977年9月28日に羽田発パリ行の日航機が
日本赤軍にハイジャック、バングラデシュダッカ空港に強行着陸した事件。
バングラデシュでは、空軍のマスード司令官が交渉に当たったのですが
その交渉の模様を録音していたとのことで、そこから事件の復元をやってみようと
こういう番組で、かなりショッキングだった・・・。
マスード司令官ブチギレる。
「なぜあなたたちは貧しい我々を苦しめるのか」
こいつは痛い!日本赤軍の言い分は一貫して日本帝国主義の粉砕であって
ブルジョワは敵、プロレタリアは味方なのだ。バングラデシュは1971年独立だから
まだ6年しかたっていない。バングラデシュは平和的独立ではなく
パキスタンからの分離独立で、当然戦争をやった。
だから、その時の軍人の大多数は革命を経験したわけです。
当事者に「俺は独立の戦士だ!」と言われると、日本赤軍
特にリーダーの丸岡修は尊敬するしかない。何しろ日本赤軍といや
戦闘経験なし、国内で内ゲバ三昧だったから、本物の戦士って意味では
「あ、何かこいつに逆らったらやばそうだな」と思って大人しくするしかない。
だから、交渉はうまくいっていた。
実際、福田内閣が「人命は地球より重い」の鶴の一声で同志が釈放されて
しかも身代金600万ドルを日本から運輸政務次官が運んできた時は、バングラデシュ政府も
大騒ぎとなってしまった。
やべえ、日本だよ、日本!日本人が来た!
VIP待遇だ、司令官が応対しろ!いや、やっぱ俺も行く!
そういうわけで、政府高官もぞろぞろと管制塔にやってきてしまった。
マスード司令官は赤軍側に提案
「残った乗客なんだけど、日本から要人が乗客の身代わりを申し出ている。
 時間をかけて考えてみてくれ」
「今すぐ返事をしよう、そんなもんはいらない」とにべもない。
釈放した政治犯と600万ドルと引き換えに、人質の半分を解放することになっていた。


人質交換も大方済んで、残る数十人の人質をどうすっかな・・・と考えていると。
丸岡修と交信していたマスード司令官がこんなことを言い出した。
バングラデシュ政府内部で問題が発生しました。もし私の部下ではない
 軍隊が近づいたら、射殺してください(赤軍側は拳銃と手榴弾武装していた)」

あ?何いってんのこいつ?と思ったようで丸岡は
バングラデシュ政府の内部で問題が発生したので
軍隊がこちらに来た場合は射殺しろということですね?」と返している。
なんということ!
航空機ハイジャック対応中にこっちはクーデターかよ!!
政府高官はこっちに集まっていたから、格好の狙い目。
その政務次官の回想では、空港は血だらけで、どこを歩いても血の海だったとか。
間もなく正規部隊によってクーデターは鎮圧されたけど
将校が11名。負傷者多数って具合。マスード司令官は危機一髪で脱出に成功した。
つか、もろ現場にいた運輸政務次官は「ジャパニーズ!ジャパニーズ!」といって
難を逃れたそうな・・・。
マスード司令官はそのまま管制塔に戻ることはなく
交渉は軍から外務省に移ってしまった。
勿論gdgdになってしまうことは必定ってわけで。
奥平純三が丸岡を説得して解放された40名ほどがダッカ空港における最後の解放。
総勢、乗員乗客118名がダッカで解放。
もうクーデターとかあったし、危ないし、飛行機はさっさと飛び立ってしまいました。
残る人質は、アルジェリアで解放されました。