周総理の野望 文革
公問うて曰く
「お前は国父といわれている。なぜだろうか」
臣答えて曰く
「失脚せざる故なり」
公嘆息して曰く
「少奇と交わるも失脚せず、沢東に反せしも重用さる。即ち君子也」
周恩来総理は毛沢東の側近中の側近ですが
国務院総理となってからは政治の手腕を発揮し
大躍進政策の軌道修正を劉少奇らと協議しました。
劉少奇と周恩来は家族ぐるみの付き合いで
劉少奇と??小平は失脚するのですが
周恩来だけは失脚しませんでした。
江青が毛沢東に周恩来を批判した時も毛沢東は
「周総理は我が家の執事だ。彼を批判することは有得ないよ」
と言って、最後まで擁護したそうです。
周恩来は、表面上文革に積極的に参加し、吊るし上げを行ったかのように
振る舞いながらも、裁判では軽い刑で済ませてしまったといいます。
また、彼は日本に留学した経験があって
(日本語が難しくて落第してしまうのですが)
田中元首相が日中国交正常化で訪中すると
固い握手を交わして
「まだ神田の古本屋街は変わっていませんか?」
と訊ねたそうですよ。
また、毛沢東が「ちょっとやりすぎたかな」と思って
「小平同志はどうしてる」
と聞いたそうです。
周恩来は、これを釈放と受け取って
強制労働につかされていた〓小平を釈放。
元の職に戻したということもありました。
権力闘争の凄まじさを感じますが
江青は、周恩来を敵視して何十人もいた秘書を3人に減らしたり
病気になっても強引に会議に引っ張り出したりしました。
そういった無理がたたって周恩来は病死。
ところが、国民は周恩来の優しさを知っていました。
天安門広場では何千何万の市民が偉大なる指導者の死を惜しみました。
それで周恩来は「国父」と呼ばれるようになったのです。
因みに、江青は周恩来の葬儀で帽子を取らなかったため
「江青、帽子をとれ!」
と罵声が上がったそうです。
それから間もなく、江青ら文革の指導者達は逮捕され投獄されます。
これによって1500万人もの犠牲者を出した文革の嵐は去っていきました。
劉少奇、林彪、膨徳懐など、中国建国の功労者達は権力闘争の中で
消えていくことになったのです。