白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

今日は晴れ。ええと、普通。
参った参った。
下痢をするわ、体中痒いわで
何だか栄養失調みたいな体になってしまいました。
思い返せば、みやちょーの授業はよく体調によって休講になることが・・・。
例えば下痢とか、頭痛とかで休講or早く終わることがあった。
M木さんも過労とか風邪でよく休講になったもんだ。
君子怪我多し、以って休講とならん、だな。


信長の野望をやってみた。
あほみたく新規武将を作っていた。
そんな中、新たな疑問が浮上。
何で四国って公家出身の大名が多いのか。
伊予西園寺然り、一条然りで。
多分西園寺の方は地下で、清華家の方ではないんだと思います。
が、一条の方は摂関家の傍流なので・・・。長宗我部家も罰当たりだなぁ
と思いつつ、実は長宗我部は始皇帝の家柄だったりする。


仮説その一。
荘園があったり、国司だったりでなんだかんだで居座った。
これは長井氏が正にそうで、大江氏が承久の乱で失脚した際は
寒河江庄に隠棲したことがあります。
長井氏と大江氏は近い親類にあたります。
さて、ところで寒河江庄は元々藤原氏のものだったはずだけど
そこらへんはまだ明らかになってない。


仮説そのニ。
四国は畿内に近くて、隠れるには絶好だった。
例えば、足利義稙は阿波公方とか呼ばれたりしてますよね。
都落ちしたら阿波に逃げたからね。
それに瀬戸内は海運の要衝が多い。これ有利っすよ。
一時期、平家が陣地を構えたのも屋島だったね。


仮説その三。
目立たないから。
バカ日本地図』によると四国は高知しか知らないとかいう
まぁ確かにバカな人が多い。
ネットとかテレビで四国の話なんかよく聞くのに
当時はそういうのがなくて、遠い島みたいなイメージがあったのかな。
そこまで行けば肥沃な土地が待っているに違いないとかいう
除福伝説というか、天竺というか、そんな感じでいちゃったのかも。
逆に何もないから自分達で開拓していこうってのがあったのかもしれない。
平泉の区画整理なんてのは正にそうで、大路を中心に小京都を展開しているんだな。
はっきり言って中世の政治は祭祀ばっかで
現実に直面した工人集団ってのが苦労した。
蝦夷とか服属しにきたっつっても祭祀するし
饗宴なんてのはとりあえず庭でやった。庭といっても当時の庭は
祭りの舞台みたいなもので、お祭り騒ぎなんて愉快なもんじゃなかったからね。
ただ貴族といっても、地下とよばれる
それほど官位も高くない人はやっぱり現場監督みたいなこともやって苦労した。
摂関家とか大臣家とかのボンボンは仕事をしなくても
位階は貰えた。これを散位といって位階はあるけど
官位にはついてないという人。ただ散位で終わってしまうと
息子はやっぱり出世できないので何とか官位を貰いたい。
それは運みたいなもんで、除目といって、官位を誰にあげるか
決める行事があって、それに選ばれると勅使が来るんだけど
それに漏れるとやばい人もいて、除目の時期になると
根回しをする人もいたそうな。