白雉日報社公式ブログ

日本第一党東北地方の何でも屋さん。

戊辰戦争は、未だに歴史学徒にとって澱となって溜まっています。
でもそれはタブーのように思われて、誰も主観的な意見は言いません。
実際私もそうあるべきだと思っています。歴史はなべて客観的であるべきです。
しかし郷土愛(「わがまち仙台」世代ともいう)を徹底的に叩き込まれた
私は、戊辰戦争を語る時、どうしても感情が出てしまいます。
だから本当は、私に戊辰戦争を語らせてはいけないのです。
山形の友人達は別に気にもしません。逆にこの感情を理解できないと思います。
そのころ山形藩は小藩でしたから、それも仕方ないと思います。
などと言うと「そんなことないよー、天童藩の家老は責任を取って切腹したし・・・」
とか言い返してきます。でも、多分私の気持ちはわからないと思います。
これはナショナリズムというか、教育の結果です。
では私の戊辰戦争観をちょっと語ってみましょう。
そもそもの発端は、新政府の態度にあります。
鳥羽伏見の戦い以来、東北の諸藩は速やかに新政府に帰順し、大人しく
していました。ところが、新政府は「会津藩は許さん」と言い出しました。
会津藩主・松平容保徳川慶喜をそそのかしたのだと思い込んでいたのです。
仙台藩は「会津藩にはこちらからよく言っておくから、どうか許してやってほしい」
と嘆願しましたが、一蹴されてしまいました。この裏には、会津と長州が元々
仲が悪かったことも絡んでいるようです。勤王派の長州と佐幕派会津
対立するのも当然です。しかも会津藩徳川秀忠の子、正之から続く、名門でした。
会津藩討伐の命令は東北各藩に出されました。やむなく仙台藩でも兵を出して
会津藩と戦っています。
そんな中、重要な事件が起こりました。新政府軍監・世良修蔵が手紙の中で
「東北の諸藩は会津を庇い、政府に楯突こうとしている。早く討伐するべきだ」と
進言していることが発覚しました。世良は仙台藩士によって斬られてしまいます。
もはやこれまで、と覚悟を決めた東北諸藩は集まって奥羽越列藩同盟を結成するのです。
仙台藩は、北は秋田口、南は白河口にまで戦線を広げて戦いました。
よく仙台藩は「ドン五里兵(大砲を撃たれると5里逃げる)」と揶揄されましたが
実際はよく戦ったと見るべきで、そうでなければ戦線を広げることはできないでしょう。
強さで言えば、荘内藩の強さは最強でした。秋田藩を降伏寸前まで追い詰め
しかも長岡でも活躍しているのです。
結果的には負けてしまうのですが、会津での戦いは酷かったようです。
当然城下町でも血生臭い戦いがあったのですが、新政府のひどいところは
遺体の埋葬を許さなかったことです。遺体は酷い臭いを放ち、何日も放置
されました。こっそり埋葬しようとした者は殺されました。
戦いというものは程々に戦ってやればよく、それ以上やると怨みとなります。
新政府軍はその点でやりすぎたといえるでしょう。
仙台藩の賢いところは、輪王寺宮を迎えたことです。
明治天皇の弟である輪王寺宮を担ぎ出して錦の御旗というわけですが
時既に遅しでした。しかし手腕はうまかったといえるでしょう。
とにかく、仙台藩は31万石を没収されました。半分です。
すると、これまでの収入が半分に減るわけですから、半分の藩士を解雇
しなければならない。大部分の藩士は農民になるわけです。
これを「帰農」といいますが、その他にも、北海道に新天地を求めて
旅立っていった者もいました。これが現在の伊達市です。
今の伊達市を開拓したのは岩出山伊達氏の伊達邦直家中で、彼は
後に開拓の功として男爵の称号を与えられるのです。
これが私の戊辰戦争観です。なかなかこの主観から抜け出すことができません。