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伊達氏と長曾我部氏の意外な縁

先日、友人たちと打ち揃って蔵王町で行われた

仙台真田氏歴史セミナー「真田家と長曾我部家」に

参加してきた。これは年に一回、同町教育委員会が主催しているもので

仙台真田家当主・真田徹氏を講師に招き、講演会を実施している。

この真田家は、「日本一の兵(ツワモノ)」と称された真田幸村(信繁)

の次男・大八の家系である。大坂の陣において、幸村勢が伊達家の軍勢と

衝突した際、幸村は先鋒だった片倉重綱(重長、小十郎景綱の嫡男)の武勇を

見込んで、家臣をつけて子女を重綱の陣に送り、保護を求めた。

これを受けて、伊達家では真田家の系図を捏造し、幸村の叔父の子だとした。

さらに幕府からの追及を避けるため、片倉姓を名乗り大八の名を捨て

元服後の名前を片倉守信と称した。

この時はまだ伊達家食客として、片倉家の所領から1000石を給された。

片倉家の所領はおよそ1万7000石であるから、その中から1000石は

破格の待遇である。

その子・辰信の代に「既に幕府を憚るに及ばず」と藩命により

真田家を再興した。領地は300石とかなり減少した形にはなったが

片倉家の陪臣ではなく、仙台藩士として自立したのだから

悲願が達成された、というところであろう。

この領地が、現在の蔵王町にあたるのである。

 

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左から司会の油川さゆり氏、長曾我部維親氏、真田徹氏

 

さて、今回のセミナーでは、この真田徹氏に加え

長曾我部氏の末裔という長曾我部維親氏を招いて

講演会と対談が行われた。

 

中小豪族から土佐の覇者へ

 

長曾我部氏について振り返っておこう。

長曾我部氏は渡来系氏族の秦氏

土佐の曾我部郷長岡を領したことに始まる。

長曾我部氏の所領は、長岡わずか3000貫(およそ3万石)と

吉良氏(5000貫)や香曾我部氏(4000貫)らと比べて弱小に過ぎず、管領細川氏に仕えて

土佐の名門・一条氏の庇護下にあった。

例えば、長曾我部元親の父・国親は、細川高国から偏諱を受けており

元親も管領細川晴元から偏諱を受けている。

国親は、よくある戦国大名のように養子縁組や調略によって確固たる地盤を築いた。

その子、元親はひ弱で色が白く「姫若子」と言われた。

その元親が初陣を飾ったのが、1566年に国親が本山氏を攻めた長浜の戦いである。

元親は当時22歳、初陣を飾るには遅い年代であり、それだけ武将としての器を

疑問視されていたのであろう。

初陣の場では、秦泉寺豊後に槍の使い方を教わるほど武芸の手習いの経験がなく

「目を突きなされ」という豊後の助言に従ったところ

敵を突き崩すことに成功。これにより元親の武名は大きく上がることとなる。

その後の活躍は周知の事実なので省くが、元親の後を継いだのは

四男の盛親である。元親の嫡男・信親は知勇兼備で英邁な武将であったようだが

秀吉の命により、島津氏に攻められた豊後の大友氏の救援に向かうも

大敗北を喫し、まさかの討ち死に遂げてしまう。

次男、三男はいずれも他家に養子に出ていたため、盛親に当主の座が

巡ってきたが、技量に難があったようで、ひと悶着起きる。

 

さらには、長曾我部氏の大黒柱であった元親が卒去し

頼みの綱でもあった香曾我部親泰らの重臣もこの世を去った。

盛親が一人取り残された形となって迎えたのが、関ヶ原の合戦である。

盛親は、およそ6000の兵を率いて主戦場から離れた南宮山に布陣したが

あまりにも戦場から遠すぎたため、状況がよくわからないままであったという。

とにかくも、西軍についた盛親は一旦改易となり、後ほど堪忍領として

いくばくかの領地が宛がわれる予定だったようだが、盛親が上洛している間

改易に反対する地元の家臣団が蜂起し、戦いとなった(浦戸一揆)。

これにより、盛親の所領は没収。罪が減じられることもなかった。

その後も盛親は何回もお家再興の運動を行っていたが

豊臣家からの誘いを受け、大坂城に入城。これに旧臣らが従い

およそ3000人の長曾我部家臣が大坂の陣を戦ったといわれている。

有名な出城、真田丸でも長曾我部衆が半分を占めたが

不幸なことに、真田丸を攻めたのは藤堂高虎勢。

藤堂高虎には、長曾我部氏の旧臣も多く召し抱えられていたため

同じゆかりを持つ人たちがぶつかるという事態となった。

最終的に豊臣方は敗れ、盛親は死罪となる。もちろん、共に戦った

一族もことごとく自害するか処刑されている。

 

豊臣旧臣は伊達家を目指す

 

仙台藩とのつながりはこの後。長曾我部元親の娘・阿古姫は

長曾我部家臣・佐竹親直に嫁いだが、大坂の陣では盛親を頼って

大坂城に入城。大坂城が落城する際、息子といるところを

伊達政宗の軍に保護されるという、真田大八と同じ経験をする。

この阿古姫と一緒にいた息子は仙台柴田氏を継ぎ

柴田朝意となって、仙台藩重臣となる。

つまり、真田信繁と長曾我部盛親の息子はそれぞれ仙台藩に仕えたことに

なるのであるから、歴史とはまさに奇怪なものである。

さて、講演会に話を戻すと

長曾我部維親氏は、元親五男・左近大夫の子孫という。

ただ、賊軍の汚名を受けたがために、関係する資料は全て

処分されてしまっているとのことだ。

しかし、それなら左近大夫の子孫という根拠が限りなく薄いと

思うのだが、どうであろうか。

パネルディスカッションでは、真田氏当主・真田徹氏が

「(昌幸は)田舎にいたから、中央の情報が入ってこなかった。情報戦に負けた」

と言っていた。けだし、そのとおりである。

会津藩庄内藩桑名藩らと違い、仙台藩は京都の情勢を真剣に

考えようとはしなかった。もちろん、京都に在番した家臣はいたし

再三、藩主・慶邦に対して早々に上洛し、大藩として存在感を示すべきと

進言する手紙を出しているが、慶邦自身が上洛することはなかったのである。

この時期、仙台藩で洋式軍隊を整備しようと東奔西走していたのが

仙台真田氏の真田喜平太であったことは皮肉といえよう。

それにしても惜しかったのは、せっかく真田氏の領土である蔵王町で行ったのに

真田氏ゆかりの場所の紹介がほとんどなかったことである。

例えば真田氏の居館跡の復元や、ガイダンス施設などの整備など

ハード面で拠点が欲しいところである。

「とりあえずここに行けば真田幸村の情報は手に入る」

という核となるところから、聖地巡礼は始まる。

予算の絡みで大変なことだとは思うが、知恵を出して真田の郷が

復活することを期待したい。