伊達氏飛翔の地・丸森町を旅する
先日、仕事で丸森町まで足を運んだ。
歴史的に極めて重要な地域であり、特に戦国時代は
伊達氏と相馬氏との領国の境目で、多くの城が築かれている。
今回、仕事の合間をぬって行ったのは丸森(丸山とも)城である。
稙宗隠居城から対相馬最前線へ
天文11年(1542)、伊達稙宗の三男・実元の上杉氏入嗣問題に端を発した
稙宗とその嫡男・晴宗との間で起こった「天文の乱」において
伊達家家中はもちろん、周辺の大名が介入しての大合戦となった。
最終的に稙宗は晴宗に家督を譲り隠居。その隠居城として築かれたのが
この丸森城という。
北から西にかけて阿武隈川の支流・五福谷川が流れ
北東側を国道113号が通る丘陵上に位置している。
永禄9年(1566)相馬氏当主の中でも
伊達氏のライバルであり猛将の呼び声の高い
相馬盛胤は、本格的に伊達領に侵攻を開始した。
宇多郡(福島県)から丸森城のある伊具郡へ侵攻し、元亀元年(1570)には
さらに、伊達氏の本拠地であった伊達郡(福島県)へその矛先を向けるや
稙宗の孫・輝宗は、反撃に出る。天正9年(1581)に輝宗の子で
後の「独眼竜」政宗が15歳で初陣を飾ったのも、この時である。
伊達勢は相馬勢を撃破し、伊具郡の諸城を奪還。
伊達氏と相馬氏の争いは長期化の一途を辿るが、その3年後には
三春城主・田村清顕の調停により両者は和睦。とりあえずは伊達氏が
この地域を確保し、前線が南へ南へと移っていくと、この城の
戦略的重要性が薄らいでいく。
状態の良い曲輪群
慶長3年(1598)には、仙台藩の奉行職にも就任する大條薩摩守実頼が
1000石にて領主となったが、間もなく近くの鳥屋館に移り廃城となった。
現在は本丸主郭に愛宕神社と稙宗の墓碑が築かれ、地元の保存会により
管理されている。
中世山城とはいえ、さほど急なわけではないし
本丸近くまで自動車で行くことができる。駐車場(といっても空き地が
あるだけだが)から歩いて数分で本丸までたどり着くことができる。
二の丸、本丸の曲輪は非常によく残っており、特に堀切が非常に深いのが
印象的である。
上の写真は二の丸の曲輪だが、本丸はもっと狭い。中世城郭というのは
そもそも山城が多く、そこは防衛のための城であり、生活の場
つまり領主のための館は城の麓に築かれることが多かった。
ましてや隠居城としてはこの程度の規模で十分であったのだろう。
本丸跡には伊達稙宗の墓碑がある。高さ3メートルはあろうかという大きな墓碑だ。
墓碑にもあるように従四位下左京大夫に叙せられた上
この時、幕府により陸奥国守護にも任官している。
本来、これは足利一門でもある大崎氏が奥州探題として担うものであるが
稙宗は大崎氏の勢力を凌駕する力を持ち、朝廷や幕府を抱き込んだわけである。
稙宗は晩節こそ家中をまとめきれなかったが、伊達氏を奥羽随一の大名に
成長させ、政宗に至るまでの礎を残した。
その功績は、極めて大きいといえよう。