白雉日報社公式ブログ

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夏の時期は定禅寺通の木陰がおすすめ

全国的に夏の装いとなった。

梅雨入りしたおかげで、天気もあまり良いとはいえないわけだが

最近僕は定禅寺通あたりで仕事をすることが多く

同じ中心部でも、東二番丁などと違って、定禅寺通はケヤキ並木のおかげで

涼しいのである。定禅寺通は戦後の復興計画により新たに作られた通りではあるが

この通りは武家屋敷が多かったがゆえ、もともと緑は豊かであったようだ。

しかし、仙台空襲により中心部は灰燼に帰してしまったところ

戦後の復興計画により青葉通と並んで広い都市道路がつくられることとなった。

それが定禅寺通である。

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昭和20年後半から30年前半の定禅寺通。まだ並木は形成されていない

この時、仙台市長は岡崎栄松で、岡崎は関東大震災の際

陣頭指揮をとった後藤新平の部下だった人である。

 

未来を見越した大規模な復興事業

 

岡崎は今後の仙台には、幅員の広い道路こそが物資輸送等に必要だと考えていた。

日本不動産研究所の伊藤盛男仙台支社長(当時)が

2001年に仙台市議会で以下のように参考人として意見を述べている。

 要するに、岡崎栄松市長、15代から18代までの昭和21年から昭和32年まで在任されていた方なんですけれども、こういう広い道路をつくるに当たって、飛行場の滑走路をつくる気かと言われたのを、私、小学生ながらにも今でも覚えております。今では、X橋から西道路まで結ぶ大変重要な幹線道路として役目を果たしていて、私たち今の時代、何ら当たり前のように思っているという一つの事実があります。

 あまりに広すぎるため、当時は必ずしも満場一致で推進とはいかなかったが

岡崎市長の辣腕により進め、結果的に後世に評価されている。

その後、仙台では「彫刻のあるまちづくり」運動が行われ

多くの彫刻が定禅寺通の緑道に展示された。

今では定禅寺通の景観になくてはならないものとなっている。

 

今こそ変革の政治家を

 

仙台というのは、とかく変わったこと、新しいことには消極的である。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を遺す」という言葉があるが

岡崎は死して道路を残す、といえよう。

わが仙台でも、信念を持って大きな改革に取り組む政治家が欲しいものである。

残念ながら今の市長に望むべくもないが…。