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仙台空襲に学べ!

昨日、7月10日は昭和20年に仙台空襲が行われた日である。
戦前から仙台は東北鎮台が置かれ、第2師団司令部の拠点でもあった。
師団は、ケースにもよるが1〜2万人からなる。
また、陸軍幼年学校・東北帝国大学など、学術機関も充実しており東北地方の要の都市であった。
さらに、大規模な航空機組み立て工場、弾薬工場など、産業面でも極めて大きな役割を果たしていた。


昭和20年7月9日、マリアナ諸島から飛び立った第21爆撃機集団の123機のB-29
10日未明、高度3000メートルから仙台市に侵入、一斉に焼夷弾を投下した。
これに対し、わが防衛部隊は高射砲約14門のほか、約10機が迎撃に離陸したものの
高高度を飛行する敵爆撃部隊に有効な反撃手段は限られており
米軍の作戦報告書によると「攻撃したきたのはわずか1機だった」と記されている。
ともあれ、米軍の爆撃隊にはほぼ反撃できず、仙台は一夜にして焦土と化した。
特に仙台市中心部は壊滅的被害を受け、一番町・国分町周辺は特に被害が多かったようだ。
これにより、伊達政宗公の霊廟である国宝・瑞鳳殿は焼け落ち、何より貴重な命が失われた。
仙台市社会課による調査では死者828人としているが、戦後の調査では2700人を超えるものもあり
その幅は大きい。というのは、仙台に在住していた者の中で、仙台に住民票がなかった人もいたからである。
また、仙台では「公会制度」を導入しており、これは隣組組織のようなものであるが
それに入っていない人もいたようである。

その後も、女川町や松島町など、宮城県内の沿岸部を中心に艦載機による空襲が
頻発し、終戦までのおよそ1か月間、東北地方は断続的に敵機の姿に脅かされることになった。
岩手県釜石市では、何と艦砲射撃も行われており、もはやわが国には
都市部をまともに防衛する能力が残っていなかったことが如実に表れている。


もちろん、これらは戦争犯罪である。
指揮官は処罰されていないどころか、米国ではわが国に対する無差別空襲を
擁護する声さえある。とんでもない話だ。
確かに国土を防衛する責任は政府と軍部にある。しかし、無抵抗である
一般市民を虐殺することを正当化することはできない。
もちろん、戦後70年以上が経った今、米国に戦争犯罪を問うことの難しさは承知している。
しかし、この明らかな戦争犯罪についてわれわれが語り継ぐことによって
犠牲となられた方々が少しでも浮かばれるよう祈っている。
ここで大事なのは、戦争のない世界だとか無抵抗主義だとか非現実的な話ではない。
二度と我が国土の上空に敵機が侵入できない防備体制の構築である。
シナの度重なる領空侵犯、北朝鮮のミサイル問題など脅威は目の前にある。
今こそ、憲法9条のくびきから解き放たれ、防備を厚くすることにより
都市への空襲といった悲劇を断ち切るべきである。
それが、われわれの世代に課された使命なのだと、強く考えている。