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人気脚本家が経験した「いじめ」とジレンマ

僕が「好きな脚本家」を挙げるとしたら
真っ先に思いつくであろう方が、岡田磨里さんである。
「心が叫びたがってるんだ」「あの時見た花の名前を僕たちはまだ知らない」をはじめ
様々な作品の脚本を手掛け、一筋縄ではいかない生々しい表現に定評がある。
「マリーの時点で不穏」などはよく言われている。
その岡田さんが、自らの半生を描いた
「学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで」
を上梓した。

本書では、岡田さんが登校拒否児童だった中学校から
大ヒット作を生み出すまでの過程を描いている。
僕は、これを読んでいて、胸が痛くなった。
岡田さんは小・中学生と極めて思慮深い子どもだったようであるが
そのためにさまざまな不安も抱えることになってしまった。
すると、クラスでも浮いた存在になってしまうのは目に見えている。
そのような少女がいじめの標的になるのは難しいことではない。
その辛い時期に手を差し伸べるべき大人がおらず、親御さんも厳しかったことが不幸に拍車をかけた。
岡田さんはそうやって育った。
「あの花」で主人公のじんたんは登校拒否の生徒で、近所の目を気にしながら生活しているが
これは岡田さんの経験をもとにしているという。
岡田さんはその少女時代を極めて比喩的でありながら、ストレートに描いている。
この文章力には心から唸らされた。


極めて難しいのは、その経験が作品に活かされ、多くの人に影響を与えたが
不幸な少年少女時代は、やはりないほうが良いのではないか。
しかし、その経験がないと名作が生み出されることはなかったかもしれない
そんなジレンマが我々に問いかけられることである。


子どもは、親を選ぶことができない。
アラブの富豪の家に生まれるかもしれないし
アフリカの難民キャンプに生まれるかもしれない。
しかし、後者であろうと子どもは生まれた境遇に文句をいうことはあまりない。
なぜか。
モラル・マゾヒズムといって、子どもはそもそも生まれた境遇そのものに
不満は持たない。例えば「何でうちは貧しいの?」という疑問は出てくるにせよ
子どものうちから「何でこの親から生まれたんだろう?」という不満はまず出てこない。
だからこそ、その子どもを育て上げる義務が親に生じているのだ。


一方、岡田さんと違い不幸な終わり方をするケースもある。
仙台市では、この3年間で3人の中学生が自ら命を絶った。
いずれもいじめを苦にしての自殺。
非常に悲しい出来事である。13歳の若い命が失われてしまったのだ。
しかし、誠に残念なことに、教育学をかじった人間なら習うことだが、いじめは無くならない。
社会において、異質なものを排除するというのは本能だからである。
最近では「スクールカースト」という構図が適切であろう。
「いじめをなくそう」と学校は標語を掲げる。しかしその学校がいじめはなくならないものだと
わかっているのである。理想は結構だが、現実に向き合うことを拒否しているともとれる。
ではどうすればいいか。いじめの実態を素早く把握し、いじめられている生徒のケアを
適切に実施することである。
生徒を孤独にせず、生きがいを見つける手伝いをすることだ。
これは単に教員に多くを求めるだけではない。地域や他の家庭を巻き込んで
生徒との交流を日常的に行うことも重要といえる。デュルケームの「自殺論」によれば
社会的につながりが深ければ自殺率は低下する。増してや外部の人であれば
スクールカーストなど関係ないのだし、課外活動にもなる。コミュニケーション力の向上にも役立つ。
岡田さんの半生を描いた本書を読み、僕はこの思いを強くしたのである。