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悩める大名、石高と軍役

2016年のNHK大河ドラマ真田丸」は、大河ドラマとしては最近珍しい
ヒット作であったと大変好評のようである。
ツイッターのトレンドではたびたびランク入りし
放送終了後には「丸ロス」なる言葉が交わされたほどだ。
1月8日から、女性ながら井伊家の惣領となった井伊直虎を描いた
「おんな城主 直虎」が放送中である。これにも期待したい。


さて、真田丸で話題となった一つのキーワードが、石高である。
戦国時代末期(主に江戸時代)、各国ではそれまで土地の価値を銭で換算していた「貫高制」から
米の収穫量で表した「石高制」へと移行した。
これにより、領民の年貢も米で納めるようになった。
現在では、その石高が領主の力を計る目安ともなっている。
例えば、真田幸村の兄である信之は松代9万石を領した。
一方で、豊臣五大老の一人、上杉景勝関ヶ原合戦以前は会津120万石であるから
両家の実力差は歴然としている。
だが、南部氏の盛岡藩青森県南部から岩手県中部という広大な領地にも関わらず20万石に留まり
南の仙台藩は60万石(常陸国竜ヶ崎など飛地含めず)と、実に3倍の差がある。
これは、表高の測量に起因している。
幕府は全国で検地を実施し、それをもとにした石高を大名に安堵していた。
この数字を「表高」という。
とはいえ、この検地は毎年行われていたわけではなく、その間に大名たちは
治水や開墾事業に勤しみ、米の収穫量向上に努めていたので実際は石高は大きかった。
その実際の石高を「実高」といい、仙台藩では明治初期の段階で「百数十万石」であると計算されている。
一方、前述した盛岡藩は山が多く、気候的にも米づくりに適している地域ではなかったことから
どうしても石高は少なくなったが、それを補って余りある名馬の産地でもあり
北上川沿いに砂鉄の産地でもあった。
また、直接石高には含まれないものの、漁業による収穫もあった。
この漁業による収穫は「海高」または「海石」といい
稲作が盛んではない対馬藩松前藩などは、これも勘案されたようである。


この石高は確かに大名たちの力を表す指標ではあったが
必ずしも歓迎されるものではなかった。
幕府が戦などで各藩から人を動員する場合
石高で割当を決めるからである。
例えば関ヶ原の合戦の場合、徳川家康は100石ごとに3人程度の動員を命じた。
馬上から足軽兵站など様々な人足も含むのだろうが
この賦役は大名にとってはもちろん、陪臣や領民にとって大きな負担になった。
仙台藩享保12年(1727)に定めた「御軍役御定」によると、100石以上の藩士は主従合わせて4人の負担としており
1000石になると、馬上2、足軽6、長柄3、持槍8、馬4など主従合わせて44人の動員となっている。
もっとも、仙台藩においては平時においても足軽は1617人おり、在郷足軽(陪臣の領地にいる足軽)も1601人いた
(旗本や不断組、名掛組などを含めると5000人以上に上る)から
ゼロから集めるわけではなかった。
その証左に、慶長出羽合戦では、上杉景勝に攻め込まれた最上義光の援軍として
伊達家は留守政景を総大将とし馬上500騎、鉄砲1000挺(「仙台市史」)を中核とする
援軍を山形に派遣しているし、南ルートで上杉領の白石城を攻略、最終的には福島城まで迫っている。
仙台藩は急な情勢の変化にあっても、十分対応できていたのである。
だが、それは肥沃な土地に恵まれた仙台藩だからこそできたのであり、そうでない藩は悲惨であった。
例えば、福島藩は表高でこそ10万石あったけれども、悪地ということもあり実高はまったく伸びず
藩の財政は窮乏したという。転封されたところが余りに荒れ果てていたため移封を願った大名もいたようである。
そこへ軍役となるとたまったものではあるまい。
真田丸」で真田信之が9万石の大名にも関わらず、気苦労が絶えないのは身内が敵同士になったということもあろうが
中規模の藩ならではの悩みを抱えていたのかもしれない。